おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

霧雨の千鳥ヶ淵  (第1342回)

 今回は、いつもの逐条の進め方から外れて、少し前に戻る。第13条について補足したくなった。例の「人として」に拘ったのはいいが、他の大事なことを言い忘れていた。そこに思い至ったきっかけの出来事から書きます。先日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行ってきた。上の写真がその淵で、江戸城の内堀の一画をなす。

 正式名称は、墓苑の公式サイトにもあるように「国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑」である。国立です。管理担当は環境省。宗教は問わないから、憲法違反ではない。そして、どのような場所なのかというと、これもサイトから引用させていただくのがよい。

 この墓苑は日本に持ち帰られたご遺骨において、お名前のわからかない戦没者のご遺骨が納骨室に納めてある「無名戦没者の墓」であるとともに、この墓苑は先の大戦で亡くなられた全戦没者の慰霊追悼のための聖苑であります。


 そういえば千鳥ヶ淵とは関係ない話題だったが、かつて「無名」という言い方は失礼だというご意見をネットで拝読したことがある。すぐ近くにある靖國神社は、確かに「名前入り」であり、千鳥ヶ淵は「お名前のわからない」方々のためのものだが、念のため、多くの国にある「無名」戦士の墓や碑も同様で、「無名」とは簡潔にいえば「有名」の反対語であって、差別や優劣の話ではない。

 それよりも、「全戦没者の慰霊追悼」と書いてあるとおり、この墓地の有難さは、軍人・軍属に限定せず、戦禍に巻き込まれて亡くなった一般人の墓地でもある。神社が誰かを限定して祀るのは当然の自由ですが、ともあれ上記の違いゆえに、皇室も海外の要人も、あらゆる宗教団体も私も、しばしば千鳥ヶ淵にお参りする。


 私は東京住まいのくせにあまり敬虔ではなくて、お参りは三年に一度ぐらいか。その慣行も歳をとってきて、前に話題にした伯父の戦死が気になり始めてからのことである。今回の思い付きも、伯父の戦没地であるテニアン行きの準備をしていたという事情もある。挨拶も兼ねて参りました。

 戸籍上の伯父の死亡日は大本営発表の1944年9月30日(グアムとテニアンの全滅)になっているが、月末日となるとさすがの私も忙しい。ちょうど当日、通院の用事があり電車の乗り換えなしで行けたので、命日の少し前に伺いました。

 その日は雨の平日で、しかも閉館少し前ということもあり、私のほかには、あと一人、ネクタイ姿のおじさんがいらしただけだった。ここで掌を合わす相手は、伯父だけではない。こういうとき心の中で、何と言えばよいのか。前回来たとき、隣で瞑目、合掌していた小学生くらいの男の子は「ありがとう」と言っていた。これが一番だな。そして、いつまでも「先の大戦」でありますように。

 
 帰りは都営新宿線の岩本町から、山手線の秋葉原に乗り換えた。秋葉原は拙宅からゆっくり歩いて一時間。そして、この町の上空は、うちからもビル越しに良く見える。なぜ、そんなことを知っているかというと、8年前の夏、自宅で仕事をしていたら、多数のヘリコプターがその方向に蝟集しているのが見えたのだ。あの通り魔による無差別大量殺人事件が起きた直後だった。

 ちょうど第13条が気になっていたので、乗り換えの時その悲劇も思い出した。当時アキバのみなさんは、公益だの秩序だの言わず、交差点に献花台を設け、長い間、弔問者を受け入れた。さて、なぜこの事件に言及するかというと、まず、もう一度、現行の憲法と、改正草案の第13条を並べてみる。


  【現行憲法

十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
  【改正草案】

(人としての尊重等)
十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
 

 補足したいことが二つあり、比較的、短くて済むほうから掲げる。現在の文末近くの「国政の上で、最大の尊重を必要とする。」を、「国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」と変えたいらしい。ここは、力いっぱい、言葉尻を捕らえる。

 今の憲法では、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」こそ、他にも尊重すべきことを定めている中で、「最大の尊重」が必要であると明記している。改正草案は、一見、字面は似せているが、最大の尊重かどうかは不問に付しており、限界までなら尊重すべしと書き改めている。ずいぶん軽視されたものだ。


 もう一つの補記は、「生命」についてである。それに続く「自由及び幸福追求に対する国民の権利」が、「公共の福祉に反しない限り」という条件付きなのには抵抗が無い。ひどく人を困らせてまで、好き勝手に幸せになりたいとは思わない。まして、その反対の立場にはなりたくない。

 しかし、「生命」に対する国民の権利は、どうだろう。そもそも、私たちの命(あるいは生きながらえる権利)が、公共の福祉に反するというのは、どういう場合なのだろうか。結論からいうと、以下の個人的なアイデアしか出ていないので、憲法がここで想定している具体的な事情を、どなたかご存じであれば教えていただきたいです。


 最初に思い浮かんだのは、正当防衛と緊急避難である。刑法の第36条と第37条に、両者の規定がならんでいる。ちなみに、私が正当防衛を覚えたのは、たぶん間違いなく西部劇やギャング映画。緊急避難は、大学生のとき読んでいた本に出て来た「カルネアデスの定理」で知った。多くの国の刑法典に定めがある。人類も悩んできたのだ。

 しかし、この日本の刑法の両条に出てくる「他人」や「他人の権利」という言葉は、「公共の福祉」の対象となる或る社会の「ひとさま」全般と同じ意味だろうか。多分、違う。こういう話題は例え話にするしかないが、例えば私の職場や家庭に強盗が入って来て、同僚や家族に拳銃を突きつけたとする。


 ここで私が勇敢にも無謀にも、強盗の頭をノート型の端末で殴りつけたところ、頭の中だけでなく頭蓋骨も弱くして死んでしまったとしようか。人殺しには違いなので、きっと裁判になるだろう。でも、これまで犯罪歴はなく、拳銃という物証も、家族や同僚からの人証もあれば、わが法定代理人の弁護士さんは、刑法第36条により無罪を主張してくださるに相違ない。

 だが、別の例えを作り上げると、もしも駅のホームで「みんな、ぶっころしてやる」と騒いでいるヨッパライがいたとして、通りがかりの私が、その人を思い切りホームの下の線路に蹴り落し、電車が来て死んでしまったら、どうなるのだろう。儚い可能性として「公共の福祉」的なものに役立ったかもしれないが、それはあくまで可能性であり、たぶん無罪にはなるまい。


 ここで刑法の「他人」とは、自分に比肩するほど大切な人のことだと思う。そのくらいの厳しい限定をしなければ、世の中、「正義の味方」を名乗る殺し屋で満ち溢れかねない。さらに、刑法は「現行犯相手なら一方的な暴力も可」とか、ましてや「殺していい」などとは一言も書いていない。上記で無罪になっても、私は自分が無辜で無実の人間だと安心する日は、生涯来ないと思う。

 私が「トリアージ」という外来語と、その意味・必要性を知ったのが、この秋葉原の事件のときだった。するほうも、されるほうも、こんな苛酷な体験はちょっと類がないと思うのだが、現代の救命医学の倫理では、現実の人員や輸送手段の限界があれば、そうするしかない。このトリアージのケースが、「公共の福祉」に該当しそうな気がする。「個人として尊重」しなければならないのだが、時と場合により、全員一斉という訳にはいかないのである。


 それでは、あまり個人の尊重をしている気配がない戦争はどうなのだ。交戦中の敵国の将兵なら殺しても罪にならない、というのが普通の考え方なのだろうな。なにぶん全く経験が無いので、想像するほかないのだが、最前線にいれば常時、敵を殺さなければ殺されるという、刑法でいえば正当防衛的な恐怖や警戒心から全く逃れることは、私のような軟弱者では不可能だ。

 だが、戦争・軍隊というものは、そういう割り切りやすいことばかりが起きるのではない。これについては、かつてエンターテイメントとして読んでいた本だが、次に引用する箇所が記憶に残ってからは、気が重くなってしまった司馬遼太郎著「坂の上の雲」(文春文庫の第四巻)から転載する。かつて、どこかで趣旨には触れたかもしれない。


 「軍人という職業は、敵兵を殺すと言うよりもむしろ自分の部下を殺すことが正当化されている職業で、その職業に長くいると、この点での良心がいよいよ麻痺し、人格上の欠陥者ができあがりやすい。

 おそろしい作家である。この一文は、「旅順総攻撃」という章に出てくる。主要な登場人物は、乃木大将、この指摘箇所の対象になっている伊地知参謀長、ロジェストウェンスキー司令官。ここで個人の評価はしないが、彼ら高級軍人は、まさしく「自分の部下を殺すことが正当化されている職業」に従事しているのだ。


 ところで私の勘違いならよいが、新任の防衛大臣のお顔の色が、テレビと新聞等の写真で拝見するだけにしろ、最近、余り良くないように思う。もちろん、着任したばかりの疲れというのは誰にもあると思うが、タイミングの悪いことに、そのあと北のミサイル発射と核実験が立て続けに起きた。ご体調も今一つとか。

 ニュースによると、自衛隊はずっと最高度の警戒態勢というから、トップの大臣以下、その緊張と疲労の度合いは、素人の想像を絶する。さて、意を決して書くが、就任するまで、この大臣は国防に関して「言うだけ」であったはずだ。防衛関係のお仕事はしていないと聞いているので、その通りならば。

 もちろん、議会制民主主義における国会議員である以上、管轄の事項や得意分野でなくても、正しいと思えば主張する権限と責任があり、その多くは投票でも伴わない限りどの議員も「言うだけ」で終わるのが大半で、それは責めてはいけないことである。それに、言論の自由は私にすらある。


 しかし、国防の主務大臣になられた。有事の際は、「自分の部下を殺すことが正当化されている職業」の筆頭である。そこに「ならずもの国家」の災厄が降りかかってきたのだから、これで顔色が良いようでは困るのだけれど、おそらく今はご自身の責任の重大さと、決断の結果がもたらしかねない「正当」な惨禍の深刻さを、この国の誰より実感してみえるに違いない。

 これは野党も報道機関も肌身で感じているはずで、領収書疑惑とやらは、どこかへ吹っ飛んでしまっている。ここ二代の都知事のときは、あれほど大騒ぎしたのに。でも、その種のプレッシャーをかけている場合ではないという判断は、確かに現時点で国益の優先順位には沿う。今は外交段階のようだが、こちらの希望だけでそれが継続するというものでもないし。


 国民の生命について、現行の憲法では、公益や秩序は規定上、言及はない。最大の尊重が「なされない」おそれは、公共の福祉に反する場合に限られる。しかし、本来は戦争も武力も放棄した憲法だからこそ、そう書いてあるのであって、ついに自衛のための交戦が始まったら、かなりの高い確率で、戦闘の最初の犠牲者は、防衛大臣の命令による組織行動の下で出ることだろう。

 呼び名が自衛隊だろうと現実には戦争なのだから、ましてや国防軍となれば、国民の権利とは別世界の力学が働く。福祉より公益と秩序が優先するのも、勝つためには避けられない(改正草案は、すでに避けるつもりがない)。この恐ろしい責任者の立場を引き受ける覚悟が微塵もないのに、国防軍だの何だのと「言うだけ」の人たちが、少なからず居そうな気がして嫌な感じ。


 千鳥ヶ淵の近辺は、霧のような秋雨が降っていて、結局、持っていた傘もささずに、移動も含めて一時間ほど歩いた。苑内には、かなり前に話題になった覚えがあるが、縄文時代の遺跡から出てきた種が育ったという蓮が植えてあった。「大賀ハス」と書いてある。水をためた葉っぱの上で、小さなバッタが一休みしていて、のどかだった。

 インドの古い諺に、「われわれは、この大地を先祖から引き継いだのではない。子孫から借りているのだ。」というのがある。「星の王子さま」にも出てくるので、ご存じの方もいらっしゃるかと思う。バッタも同意見だろうな。小さな虫は、子孫を残すために生きているような命だから。穏やかなるもの、この地を継ぐべし、と山上のイエス様もおっしゃった。





(おわり)





ハスとツチバッタ  (2016年9月13日、千鳥ヶ淵にて撮影)







 ”We do not inherit the earth from our ancestors; we borrow it from our children.”












































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