おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

第9条第1項の改正案は本当にこの理解で良いか(第1326回)

 ようやく9条関係の下準備が一段落したので、自民党憲法改正草案の第9条第1項と、現行憲法の条文を比べてみます。ブログのタイトルどおり、自信が無いので、今回は全体的に自問自答になっている。まずは、そのまま並べてみます。


【現行憲法

第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


【改正草案】

第二章 安全保障
(平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。



 上から順番に見ていきます。まず章名が先述のとおり、「戦争の放棄」という日本史上で初めて、世界でも稀と思われる国の方針を、「安全保障」に切り替えた。詳細は次回以降に取り上げるが、軍隊を持つ国に変貌するという宣言である。その是非を今回は問わないが、これを決めたら近隣国から激烈な反応が来ることを、私たちは覚悟する必要がある。

 第9条はおそらく改正の議論に着手するだけでさえ、国際問題になりそうだ。ただし、タイトルに「平和主義」が加筆された。これで反論できるのかな。今回の第9条第1項は、第2項以下と比べればまだしも穏便な変更案だと思う。細かい点を挙げると、まず「国権の発動たる」が「国権の発動としての」に、また、次の節にある接続の「又は」が「及び」になっている。

 前者は問題ないように思うが、特に後者は念のため、法律家の意見を聴きたい。こういう法令や契約に頻出する用語は、厳密な使い分けがなされており、日常用語と差異がある場合もある。英語でも、固い文章では「and/or」の使い分けに神経を使う。


 第1項は、大きく分けて二か所が、改められている。先ず一般論から、例えばビジネス・レターなら、ほとんど同じような意味であれば短いほうが良い。若いころ、よくそういう指導を受けました。法文でも同様だろう。だが憲法は、私の文章ごときとは別世界の事柄であり、ついては次についてきちんと考えたい。

 すなわち、(1)改正の前と後で、同じ意味なのか。(2)違うとしたら、どちらが適切か。(3)どうせ同じなら、短いほうが良いのか。まず、(1)の同じかどうかについて。同じではないと考える。だからこそ変更をするのだろう。では、私はどこが違うと思うのか。


 現行憲法の述語とその相棒となる名詞は二組ある。文法の細かいことにこだわらずに分解すると、(A)「国権の発動たる戦争は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と、(B)「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」であり、結果的には共通部分を省いて一文になるようにしている。

 言い換えれば、「国権の発動たる戦争」と、「武力による威嚇又は武力の行使」は、両方とも「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という意味だ。語順からして、この読み方で間違いあるまい。


 では、改正草案ではどうか。同様の手段で分解すると、(C)「国権の発動としての戦争を放棄(する。)」と、(D)「武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。」である。現行の(B)の後半部分、換言すると現憲法にある「国際紛争を解決する手段としては」および「永久に」は無く、自ずと改正草案の(C)「戦争の放棄」には掛からない。

 よって私の理解が正しければ、上記の設問(1)の答えは「違う」である。ここで私が正しいと仮定して、次の(2)違うとしたら、どちらが適切かについて考える。なお、(3)は検討不要となる。

 もう一つの仮定が必要で、「武力による威嚇又は武力の行使」とは、現行憲法でも可能な自衛権の範囲となるので、推測だが抑止力であるとか、イージス艦による迎撃のようなもの(必要最低限の武力行使)だとする。


 改正草案の(C)「国権の発動としての戦争を放棄」は、繰り返すが「国際紛争を解決する手段としては」(例えば侵略戦争は)放棄するという限定もないし、「永久に」という副詞も、意図的に外されている。「永久に」は後ほど(D)で述べるので、ここでは「国際紛争を解決する手段としては」が外れたことの効果を考える。

 大雑把に、戦争には自衛と侵略の二種があるとして、この(C)は侵略だけ放棄するということにはならないので、普通の日本語では、自衛の戦争も放棄するという意味になる。しかし自衛権の維持・発動の放棄は、続く第9条の第2項および第9条の二の内容からして、あり得ない。変だ。私の理解が違っているか、書き間違えか、私が気付かない何かがあるのどれかだ。一番目の事情であることを祈る。


 なお、次回の題材にするが、改正草案の第9条第2項には、「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」となっているので、全体としてみれば自衛の戦争は放棄していないと解釈できるし、むしろ自衛権を例外として強調するためには、この方がレトリック的に上手なのかもしれない。今やこの自衛権に、「集団的自衛権」も入って来るのは明らかである。

 もう一つの目立つ変更点が、上記(C)(D)の両者における「永久に」の削除である。「放棄する」と「用いない」は、意味が同じだとしても、「永久に」が付くと付かないとでは大きく違うだろう。付かなければ、それはその法文が活きている限りのことである。「永久に」は、憲法を改正しても、ここは変わらないと、読もうと思えば読める。違うだろうか? 法的にではなくて、私たちの言葉の使い方として。


 この第1条の平和主義を、白洲はプリンシプルと呼んだ。私が言い添えれば、格調と呼ぶ。中学生のとき公民の授業で日本国憲法の概要を教わったとき、特に強く印象に残ったのが「基本的人権」という概念と、「永久に放棄する」という宣言の高らかな響きだった。これを削除するのか。

 英文憲法の「放棄する」には、「renounce」を使っている。用いないとか、止めるという程度の緩やかな語感ではない。宗教でいえば出家、スポーツでいえば棄権、条約で言えば破棄、王様で言えば退位である。取り返しがつかない覚悟を前提とした行為であることを示す。しかし何故、改正草案の第1項に、「放棄する」と「用いない」が混在しているのか分からない。


 さらに個人的な意見の色合いが濃くなるけれども、第9条第1項は、現行憲法も改正草案も、主語が「日本国民は」となっている。先ほど宣言と言い表したのは、単なる言葉の綾ではなく、前文と似て、私は日本国民の宣言だと思っているからだ。

 しかし、私見ながら、改正草案の(C)(D)は分かりやすいように改編すると、「日本国民は、戦争も、武力による威嚇及び武力の行使も、侵略手段としては用いない。」となる。これは宣言でもないし、禁止令でもない。概念の規定でもないし、組織の責任や権限の明示でもない。単なる文である。第一、戦争を始めるのは日本国民なのか。


 中学一年生のときの英語の教科書は、こう始まっていた。「I speak English. I like it.」。私は英語を話します。私はそれが好きです。文法的には非の打ちどころがないが、英文のほうはまだしも、この日本語の文二つを話す機会は死ぬまであるまい。生きた言語ではない。つまりこれも、格調が低い。

 法律に品位や風格は不要であり、法律家の誰が読んでも同じ理解にたどり着けるよう、正確であればよい。だが、憲法は国民が定めるものであり、正確なだけでは駄目で、分かりやすさと独立国の誇りも必要だ。さらに言えば、三権分立主権在民は、どの国にも似た条項があって制度に関するものだが、戦争と平和に関するものは、制度だけではないし国により内容も重要度も異なる。


 日本が戦争に負けた直後に作った憲法を改正したと聞けば、利害関係の深い国々や先進国は、当然ながら戦争放棄については、どう変えたのかに注目するはずだと思う。それがこれで、宜しいのだろうか。さらに心配すれば、この「永久に」を削ったというだけで、国民投票の何票かは反対側に回るかもしれないと考えないのだろうか。これらの懸案は、次回に持ち越します。

 ここ最近の近隣国の挑発は実にしつこく、極めて品が無い。やり返せと感情的になる気分も、私はよく分かる。それでも、現時点で連中がこれ以上の手出しができない理由は、やはり第9条と安保の存在と、それだけではなく、戦後の日本の「同じ土俵に立たない」という一貫した態度が、争いを避けて来たのは間違いないと思う。





(おわり)






湯河原温泉。元都知事ご用達。
(2016年6月3日撮影)