おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

現行の第9条第2項  (第1318回)

 第9条は、これをこのまま永久保存したいという立場の方々からすれば、至ってシンプルに読めるだろう。細かいこと抜きで重要な点を拾えば、章名が[「戦争の放棄」、第一項には戦争も武力行使も永遠に放棄すると念押しがあり、第二項に戦力は持たず、国の交戦権も認めないと断言している。

 このサイトに書き込みを始めてから、憲法関係のメディアやネットの記事があると気になって読むようになった。話題として多いのは、やはり第9条、関連して緊急事態条項。お国の危機なのか。この憲法で、何をどこまでできるのか。


 第一項は、修正すべしという意見も多い。第二項は、削除すべしという強い主張も少なくない。我が家から見える場所に防衛省自衛隊があるから、個人的には物騒に思う。現代日本が置かれた国際情勢を横に措けば、自衛隊は戦力であり憲法違反という主張は、文言の受け止め方として筋が通っている。

 それを、これまでの日本国は多種多様な憲法解釈という便法で、行間を読み、旧い資料から言葉を読みかえて、しのいできた。それも、もう限界というのが多くの保守陣営の意見とみえる。もう一度、現行の第9条を掲げます。


第二章 戦争の放棄

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 繰り返すと前回では、国際紛争という第一項の言葉は、自衛だろうと侵略だろうと、勝とうと負けようと、戦争に先立って当然起きることだろうと書いた。たとえば元寇は、一方的にいきなり元の水軍が攻めて来たかというと、少なくとも鎌倉政府はそれに先立ち、激しい文書のやりとりをしていた模様である。ハル・ノートの類の紛争は、昔もあったのだ。

 ナチス・ドイツも、全く前触れなくポーランドに侵入したのではない。織田信長も、通りすがりに延暦寺に放火したのではない。戦争は攻める方も勝つ方も人が死ぬし、戦力が消耗する。できれば口喧嘩だけで勝ちたいのだが、そうはいかないのだ。そして、この「国際紛争を解決する手段」という表現を手掛かりに、自衛権の議論は進められてきたらしい。


 第二項の文頭にある「前項の目的を達するため」という、接続の句が論点になる。これは「芦田修正」と呼ばれる終戦直後の日本側の加除訂正の提案のうち、現在おそらく最も重視されているという感じがする自衛権のよりどころ。これは帝国議会衆議院にいた芦田議員の発案で、GHQのドラフトに付け加えられた。

 いま改憲を望む声は、しばしばこれに触れ、芦田さんが1946年の憲法審査会や、その後の著書において、この文言の含意は、第一項が侵略戦争に限って放棄したものであり、自衛のための戦争を放棄したのではないという記録を残したため、ちょうど70年も経って騒ぎになっているのだ。


 これだけでは弱い、と私は思う。彼がそう思っていたと言っただけだ。その熱意や苦労は想像を絶するが、残った憲法条文には侵略の「し」の字も、自衛の「じ」の字もない。さらに、憲法を制定する過程において同年の国会では、吉田茂首相が、こう語っている。

戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も抛棄したものであります。従来近年の戦争は多く自衛権の名に於て戦われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争然りであります。


 後年、日米安全保障条約自衛隊防衛庁の発足に尽力した御方も、敗戦直後で国中が疲弊し、戦争はこりごりという私の祖父母や両親が語り続けた世相の中で、こう言わなければ憲法もでき上がらず、立憲主義の独立した主権を有する国歌として再出発できない。芦田さんのコメントは、首相の答弁で一旦、日本昔ばなしになっている。

 ちなみに、私は吉田茂をかろうじて知っている最後の世代で、もっとも、はっきり覚えているのは小学校1年生のときに彼が亡くなり、ニュースでそれを知ったときに「国葬」って何だ?と不思議に思ったことだ。今だに国葬はよく知らない。施主が国?


 さて、芦田さんは気分だけで自説を展開したのではない。だからこそ今も問題になっている。彼は第一項にある「国際紛争を解決する」戦争こそが侵略であり、放棄したのもそれだけだから、自衛のために戦争する権利はある(残った)のだという趣旨の論理展開で語っている。

 当然、自衛のための「戦力」は持てるということになるだろう。たまたま、ネットで拾った資料をご案内する。適当に検索したら、これだけ出て来たので、出自がなかなか分からなくて往生しました。
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/1800531_point.pdf/$File/1800531_point.pdf


 URLを手掛かりにするしかない。衆議院のサイトであろう。その先の家探しが長かったのだが、「kenpou」は憲法審査会(国会法に規定のある衆議院内の組織)のこと。数字の「1800531」で検索しても何も出てこない。結論だけ言うと、第180回国会、5月31日のはずだ。

 第180回国会は、もう遠い昔のように思える民主党政権下の2012年。だが東日本大震災の翌年だ。この前月の2012年4月に、北朝鮮は「人工衛星」という奇妙な綽名を付けたロケットを発射し、関係各国の大顰蹙を買った。

 
 そういう時節に憲法審査会は、5月31日に「日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件(日本国憲法の各条章のうち、第二章の論点)」について議論している。上掲は、その時の配布資料なのだ。

 左下のほうにあるように、当然まだ集団的自衛権は認められていない時代である。芦田修正は、真ん中左のポイント3に、また、これを受けての政府見解は、その右のポイント4に示されている。


 そして、その上のポイント2も、芦田さんの見解に直接かかわる「国際紛争の解決」という言葉の国際的な意味合いである。まるで判じ物だ。これが侵略戦争のことだという。ポイント2に小さなフォントでカッコ内に、「例えば不戦条約1条」と前例を掲げている。

 ゆえに、戦争先進国ではこれが侵略戦争を意味する符丁なのだそうだ。不戦条約というのは、昭和28年に日本も加わって集団的な安全保障を目指して締結したパリ不戦条約のことで、私は学校で「ケロッグ・ブリアン協定」と習った。仏米の外務閣僚の名前である。

 
 今日は長いが、お時間あったらお付き合いください。同協定は、第一次大戦に懲りた国々が、いい加減もうやめようぜという感じで寄せ書きしたのだが、結果はご存じの通りで、第二次大戦を防げなかった。

 条文上の問題としては、その原文をまだ見つけていないのだが、アメリカが自衛の戦争まで禁止してはいかんという強硬論を押し通したらしい。上記の資料の不戦協定第一条は、当時の大日本帝国の訳によると、次のとおり。

第一條 締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス。

 ここにある「国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし」というのが、アメリカの設けた制限(侵略戦争だけは駄目)であり、そっくりそのままの表現で、日本国憲法の第9条第1項に使われたということだ。


 つまり、従来の政府見解は、この「国際紛争を解決する」戦争こそが、第一項で永久に放棄された侵略であり(この禁止令自体は、私も大賛成だが、要注意人物たちは第一項まで削除せよと言っている)、侵略ではない戦争は、パリ不戦協定も日本国憲法も、その権利を否定していないという芦田さんの解釈をそのまま踏襲している。

 というよりも、これが当時アメリカの言い出した表現および考え方であるならば、なるほど改憲派が「アメリカに押し付けられた」と繰り返すのも当然で、自衛権に関する米国の主張と言語表現をそのまま拝借しているから、今さら縁を切ることもできない。


 それに、自衛隊も元はといえば、アメリカに押し付けられたようなものだと私は思っているのだが、こちらは不問に付されている。その自衛隊と上位組織の防衛省が、この件について何といっているか、お聞きしない訳にはいかない。

 かつては彼らの公式サイトの文書に、きちんと書いてあった。「防衛白書」の文中にあったのだが、以前は集団的自衛権の行使を否定する文言もあった。どうやら私が読んだ後で、書き換えられたらしい。
 たとえ法律が変わろうと、さかのぼって公文書を書き換えてよいはずがない。私の勘違いかもしれないのが怖いが、古い白書の紙資料はどこかにないか。URLは令和二年度の白書です。次の太字の文章は、改変前の白書を読んで書いたものです。


www.mod.go.jp


 
 これだけ読めば充分だろう。自衛隊は有事の際はまっ先に命の危険にさらされる。平時でも、こういう文書で言葉一つ間違ったら、大騒ぎになりかねない。

 そういう立場の人たちが智恵を絞ると、こういう平易かつ冷静でシャープな解説になる。防衛省は信用ならないという論者もいるが、これ以上に正確で分かりやすい記事があったら教えてください。


 自衛力は持てるが、戦力の保持も、交戦権も憲法で禁じられている。具体的には、相手の国土を壊滅させるような、攻撃的兵器は持てない。重要なのは以下の箇所だ。決定権者は内閣ではない。国会だ。一方で、予算次第という指摘の恐ろしさ。

 その具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断されます。

 勘違いなら喜ばしいが、どうもこの日本という国では、ミリタリーがかくのごとく自制の効く組織として自律しており、どういうわけかシビリアン自身のコントロールが不調という、文民国家のアンチ・テーゼのような状況を呈している。


 さて当方は、一方で早く憲法改正草案を読みたいが、まだ少し現行憲法に関連して、触れておきたいことがある。

 なお、憲法改正草案に関連して、自民党の「Q&A」というリーフレットも公表されている。これも読みたいという好奇心に駆られているが、振り回されそうな予感もするので、今しばらく自力でがんばる。


(おわり)



【追記ご参考】 平成14年度「防衛白書」より、第2章第1節3。





梅雨明け  (2016年7月31日撮影)