おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

安全保障のために  (第1322回)

 改正草案の第9条に進む。ここで政治的な議論はしないと申し上げて始めたものの、自分がどう思おうが、第9条に関連する何らかの意見を述べれば、この国では自動的に必然的に、政治的言動とみなされるだろう。

 私はいわゆる無党派層に分類される人間であるはずだと前に述べたが、ものの考え方感じ方という意味では、極めて保守的です。平たくいえば、ついていくのが大変だから、世の中が余り変わってほしくないという怠惰で消極的な保守だから、街宣車には乗らない。最近は世の中の変わりようが激しいので、保守も大変だ。


 したがって、小欄で自民党憲法改正草案に、あれこれ批判的なことを書いているのも、与党憎しが理由ではない。むしろ保守政党(自民でなくても構わない)が、しっかりしてもらわないと困るからだ。この改正草案も、幸いこのままでは発議しないと今のところは仰っているようだが、どうなることか。

 以前もどこかで触れたと思うが、特にこの第9条の改正案はいただけない。このままなら、国民投票では反対票を投じる。9条の改正自体に反対しているのではない。少なくとも、自衛隊憲法上の位置づけだけは、明確にしなければならないと思っている。できれば第9条の改正でなくても、内閣・行政のところで何とかできないかなあ。自衛隊は行政府なのだ(そうですよね? 隊員は公務員だし、立法府でも司法府でもない)。


 なぜ総論的に草案を受け入れられないかという理由を述べる。「外交」という言葉が第9条改正案に一つも入っていない。これがなぜ気に入らないか説明します。ちなみに、現行憲法も改正草案も、外交という用語自体は載せており、いずれも国事行為の中に出てくる「外交文書」と、内閣の章にある「外交関係の処理」が行政府の責務であるという箇所のみ。

 現行と同じなら良いではないかというものではない。全く違う。第2章の章題「戦争の放棄」なのだから、外交は行政府が行うという定めが、どこかにあれば充分だ。しかし、改正草案の第2章は、「安全保障」になっている。そして一言で片づければ、改正草案の第2章には戦争・軍隊の規定しかない。これでは仲の悪い国に喧嘩を売っているようなものだ。

 
 かつて、外交分野の遠い片隅で働いていたことがある(公務員ではない)。外交は上手くやって当たり前、しくじると大騒ぎという難しい仕事だ。個人的には、現政権の外交当局はそつなく働いていると思う。目立たないのは、「上手くやって当たり前」なので報道されない。そして、外交は票が取れないので政治家も無関心な者が多い。外務省の族議員なんて聞いたことないでしょう。

 だが、国家の安全保障を語るにあたり、軍事の規定だけで外交に全く触れないというのは、余りに正直すぎる。前文には平和平和と書いているが、現行の平和憲法だけで平和を守れないと言いつつ、では軍事だけで平和を守れるだろうか。


 束の間の安全は守れるかもしれない。仮に敵性国の軍隊を片っ端から駆逐して、その国民を半殺しの目に遭わせれば、当面、日本は安全だろう。でも、その手段は平和的とは言わないし、日本は平和な国だと言う外国人は皆無だろう。それを目指すのか。いま、アフガニスタンイラクは、どうなっている。

 「坂の上の雲」をお好きな方も多かろうと思う。当時の将兵の優秀さと敢闘ばかりが注目されがちだと感じるが、戦前・戦中にわたり、日英同盟、海外での国債発行、国際法の遵守、米国への仲裁要請、諜報活動とあらゆる外交努力を尽くしての薄氷の勝利だったのだ。それでも、あんな大戦争になってしまった。


 私が子供のころ安全保障という言葉を覚えたのは、たぶん国連の安全保障理事会という名をニュースで何度も聞いたからだと思う。また、通常は「安保」と略していたが、日米安全保障条約も、1970年の小学生のとき、延長するかしないかで大騒ぎになった。安保理日米安保も、平和に貢献しているのだろうが、軍事抜きでは語れない存在でもある。どうにも、キナ臭い。

 安全保障理事会には「拒否権」なるものがあると知り、幼い私は関心したものだが、やがて、アメリカは勝手にイラクに侵攻したし、ロシアはウクライナの紛争で拒否権を行使するしで、私の理想ほど機能してはおらんなというのが今の感触である。それでも、安保理も総会も、重要な外交の場として不可欠であることに異論はない。

 ちなみに、安保理は国際的な安全保障のため、国連軍を編成できるという規定があるが、いまだ実現したことがない。戦争が無かったからではない。戦後のたいていの戦争は、安保理常任理事国が当事者か、利害関係者になっているのは周知のとおり。仁義なき戦い。国連軍については、はてなキーワードご参照。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%F1%CF%A2%B7%B3


 アメリカには、「国家安全保障会議」と和訳される組織がある。1947年発足。ようやく日本の軍部も財閥も解体したし、下書きまで作ってやった平和憲法も成立したので、いよいよ宿敵のソ連と戦うべく準備されたものだ。きっとそうだ。メンバーには、正副大統領のほかに主要閣僚が名を連ねる。

 中でも国務長官と国防長官は、日本でも頻繁に報道に登場するとおり、大統領の助さん格さん的な存在である。副大統領の名前は知らなくても、この両長官の名前は知っているという人も多いのではないか。この両者は、外交と軍事の責任者である。あの好戦的な米国でさえ、安全保障のためには車の両輪のごとく、軍事と外交が不可欠なのだ。


 日本政府も真似をして、「国家安全保障会議」を作っている。こっそり。少なくとも私はずっと後から知った。しかしこれは当方の怠慢であり、2012年の自民党政権公約に書いてあったそうで、翌2013年に設置された。つまり、つい最近である。もちろん安倍内閣になってからだ。無いよりは、有った方がいい。ちゃんと外交をするなら。でも、なぜか憲法には書きたくないらしい。

 面倒だという気分は分かる。なんせ今、報道によれば日本の安全保障上、目障りで仕方がない近隣幾つかの国は、まともな外交のできない国家だから。国際司法の判決を無視したり、安保理の決議を顧みなかったりと、日本が長年、大真面目に守って来た欧米製の国際法が眼中にない。でも、直接の外交が難しいからとて、諸外国との外交努力に最善を尽くし続けるのが安全保障というものだろう。

 
 それなのに、改正草案の第2章には、外交も国連も日米安保も、全く触れていない。書かない方が良い理由があるなら、教えてください。また、戦争に必要な食糧と化石燃料と鉄鉱石などを自給できそうもないなら、通商も重視すべきだと思います。

 今日は御巣鷹の日。毎年同じことしか言えませんが、改めてご冥福をお祈りします。
 




(おわり)




写真くらいは平和なものを  (2016年6月3日撮影)


















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