おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

象徴としての務め  (第1320回)

 本日(2016年8月8日)、天皇陛下のお言葉がビデオで放映されました。もっと、しっかり考えてから記事を書くべきかとも思いましたが、直後の感想というものも記録に残しておけば、いつか何かの役に立つかもしれないと、儚い望みなど託して書きます。資料は宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

 まずは、ご高齢を強調されつつも、「幸いにして健康」と仰り、表情も声もしっかりとしてみえたので御達者でいらっしゃるご様子、何よりのことだった。10分程度のお話しであったが、内容は濃く「お気持ちがにじみ出ている」というような報道の表現は緩すぎる。


 途中の「幸せでした」というご発言と、締めくくりの「国民の理解を得られることを、切に願っています。」だけで私には充分だ。ご決心は固い。あとは理解を求められた主権者たる国民が、どう考えるかだ。学者や政治家は早くも法整備や日程の話に夢中のようだが、今はそういうのに付き合うつもりがない。

 うちで購読している日本経済新聞は、先月7月27日の夕刊や30日の朝刊・ネット配信などにより、繰り返し「生前退位」の話題は「憲法違反のおそれがある」と書いている。日経だけではない。別に日経に恨みもないが(そうでなければ当時も今も購読しているはずがない)、違憲かどうかは司法の判断。裁判の権利は誰にもあるから、遠回しに書いていないで裁判所までどうぞ。


 陛下は冒頭で国事行為に、また、終盤で国政に触れ、憲法第四条に定める天皇の権能に関する規定を踏まえて語ってみえる。全体のご主張が憲法や法律に違反したり、その趣旨に沿わないことなのかどうかは、国民の最終判断に委ねるという、これも主権在民の現行憲法の基本に沿った流れである。

 それに、このお話しの中によく出てくる天皇、国民、象徴という言葉は、いずれも憲法の第一条の用語だ。今日われわれにもたらされた問いは、第四条の「なわばり」の話ではなくて、第一条に照らして、ご自分の意見を,、国民はどう考えるのかということだと思う。


 たいへん印象的だったのは、タイトルに選んだ「象徴としての務め」、あるいは「国民統合の象徴としての役割」という天皇自らが担っているというご自覚がある事柄に関することが、このご判断の核心部分であったということだ。

 私の第一条の読み方も、以前の記事を消したくなるほど浅薄であった。ずっと昔から、第一条にある「地位」という用語が私には重くて、「王位」や「玉座」のようなイメージであった。そこに座っているだけで一番偉いのである。


 しかし、今上におかれては、憲法における象徴とは、ハトポッポと平和のような暢気なものではなかった。それは例えば、「天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる」というような表現に示されている。

 私なりの理解では、国民がやりたくてもできないこと(一例を挙げれば、いわゆる「皇室外交」)や、やらなければならないのに、なかなかできないこと(被災地の慰問や戦没者の慰霊)を国民の総代として行い、あるいは、皆も行うべきではないかと国民に問うということだろう。


 そう考えれば、年齢的な事情で体力が衰え、充分な務めができないというのも、しごく分かりやすい理由だし、これは記憶が曖昧で恥ずかしいが、確か別の機会には「公平性」も大事と語ってみえたように思う。

 たとえばA国の大使に会って、同じ用事のB国の大使には体調不良で会えないということが起きると、本当に深刻な体調の問題であっても、穏やかに片付かないかもしれない。これは次世代以降の皇室へのメッセージでもあるだろう。

 社会は変わりゆく。憲法はそう簡単に変わらないし、特に象徴天皇制は容易に変えることができるものではないと思う。そういう条件の中で、生身の人間でもあられる天皇陛下からのお願いでもあり、求めでもある今回の問い、重くて厳しいものだ。憲法に関する限り、「お大事」では済まない。




(おわり)




今日は宮内庁でミンミンゼミが鳴いていました。
(2016年8月5日撮影)









































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