おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

現行の第9条第1項  (第1317回)

 昨日(2016年8月3日)、我が国で軍事志向の強い政権が新内閣を発足させた途端、軍事行動が好きな北朝鮮が、ミサイルを飛ばしてきた。よもや偶然ではあるまい。あの方向音痴のミサイル、どこを狙ったか分かりはしない。これでもまだ自衛権の発動に至らないとは、安心すべきなのか懸念すべきなのか...。

 今一度、初めてここにたどり着いた方々へ、私は法律家でも政治家でもなく、ここで改憲論争をする準備も意向もないのですが、もしかしたら国民投票になるかもしれない時代を迎えておりますので、現行の憲法と、自民党が2012年に公表した最新の改正草案についての基礎的な独学をしています。ですので、政治信条の熱い議論は期待薄。

 現行の日本国憲法は、第二章が「戦争の放棄」という名称であり、その下に第9条という一つだけの条、第1項と第2項という二つの項がある。一言でいってしまえば、第1項は「戦争しません」、第2項は「戦争用の武力を持ちません」ということだと思うのだが、現実に自衛隊がある以上、事は簡単ではない。今回は第1項に何が書いてあるのか整理を試みる。まず現行憲法およびその英語版。


  【現行憲法

第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

  【英語版】

CHAPTER II  RENUNCIATION OF WAR
Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.


 今回また英語版を持ち出したのは、日本語が長くて複雑な文なので、少しでも解読に役立つと期待してのものだ。ところが、この英文も「as」が二回出てくるなど、決して分かりやすいものではない。両者を比較のうえ、できるだけ間違いのないように、日常用語に置き換えたい。

 遠い昔に習った英文法に、「分詞構文」というのがある。これがなかなかの難物で、その意味が原因であったり、時間的順序であったりと様々である。上記英語版の文頭にある「Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, 」がこの分詞構文なのだが、日本語では軽く流している。これは放棄する理由を示していると考えて良かろう。


 つまり、大意「国際平和を希求しておりますので」といったところか。それは宜しいが、「正義と秩序」が国際平和を支えているという箇所は重要な論点で、確かに正義と秩序が上手く働けば国際平和も保たれるだろうが、戦争を起こす側が訴えるのも、正義と秩序の維持であることが多い。

 例えば、「イラク大量破壊兵器の破壊のため」とか。この手の論者にとっての「正義と秩序」とは、明確に「軍事力」のことだ。それしか方法はないのか?という問いを受け付けようとしない。


 極論すれば上記の分詞構文の箇所は、前文との関係において重要だが、削除しても後段の本論に影響は与えないし、残っても構わない。では主張の根幹部分はどこか。主語と述語は分かりやすい。「日本国民は」、「永久にこれを放棄する」だ。

 「永久に」という言葉は、移り行く世における法が断言する用語として、尋常のものではなかろう。したがって、これを削除する覚悟も、尋常のものではあり得ない。この「放棄」という言葉は、上記引用のとおり、英語では「RENUNCIATION」という耳慣れない単語が使われている。

 ここ以外の英文で見た覚えは無い。手元の辞書によれば、ゴミのポイ捨てのような軽率なものではなく、法律用語としては、明言するか暗黙裡かを問わず、権利や地位を手放すようなときに使うそうだ。「永久に」という強調が、「改正を許さない」と同義なのかどうかが論点。


 それでは何を放棄すると言っているのか。つまり文中の「これを」とは何のことか。とりあえず「国際紛争を解決する手段としては」という条件を横に措いてみると、(1)国権の発動たる戦争、(2)武力による威嚇又は武力の行使。この二つだろう。

 国権とは何か。こちらも余り日常で聞かない言葉である。広辞苑の説明は少し長いが「国家の権力」という意味が、最初に出てくる。そのあとで支配権という意味も載せてある。支配権としての国家権力が及ぶ範囲は、当たり前だが、本来その国の内だけだろう。

 外国同士でパワーを発動し、内政干渉し合ってはお互い独立国として収拾がつかなくなる。しかしながら、この9条においては、「国際平和」、「国際紛争」という言葉が出てくるように、現憲法の舞台は国際社会であって、国内向けの権力の話ではない。


 もし国内向けの「国家の権力」を含めると、「国権の発動」ができる戦争とは、理屈では内戦なども対象になる。しかし、現状それでは解釈上、危険である。以下、そう思う理由を述べる。戦争放棄の目的は「国際平和」であり、専守防衛は、ぎりぎり許される境目とされてきた。

 繰り返すと、内政において「国権の発動」がある戦争とは、実例を挙げれば西南の役のような内戦です。官軍のお出まし。内戦なんて大げさだと思うだろうか。確かに戦後の日本は、経済的にまずまず安定していたし、救いが必要な人に対する社会保障社会福祉の財源にも余り困らなかった。

 これまで幸いだったただけで、人は食い詰めれば、黙って死んでいくか、さもなくば立ち上がって一揆を起こすか、致し方なく選ぶことになるのは古今東西の歴史で学んだとおり。だが、今の憲法が第9条で対象にしているのは、くどいが確認のため、対外戦争のことです。


 自民党の改正草案にある国防軍が実現すれば、すでに集団的自衛権の発動が可能という安保法案が可決されているので、今の自衛隊よりも、ずっと武器・人員・予算において大規模な戦力にならざるを得ない。もしも戦争するなら、絶対に、負けたら大変だ

 自衛隊は規律正しい一行政組織だが、軍が巨大化すれば外交にも財政にも当然影響が出る。我が国の近代史が示すように、国の政治に口出しする可能性は常にある。二・二六事件は80年前。私の両親はもう生まれており、遥か遠い昔とは言えない時代の出来事だ。


 考え過ぎと思われる方は、改正草案の第98条「緊急事態の宣言」が、どのような場合に行われるかをご確認願いたい。「我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態」が起きたときである。国防軍の出動条件には、内乱の発生も織り込み済みであるのは明らかだ。国防軍は国民にも銃口を向ける。

 上記の「放棄した」対象の片割れ、(2)「武力による威嚇又は武力の行使」は、現行の憲法では、戦争とは呼べないものの、外国に対する武力による威嚇や行使が必要な事態を含むと考えても、間違いではないと思う。そして憲法は、(2)をも放棄している。なお、改正草案の第9条および安保法案については引き続き、別途話題にします。


 最後に、先ほど横に措いた「国際紛争を解決する手段としては」という文言について。字面にこだわれば「他の事情なら、この手段でも可」と読める。それにしても、戦争・武力による威嚇(軍備や訓練による抑止力も含むだろう)・武力行使は、国際紛争以外の場で起き得るものだろうか。「他の事情」なんて、あるのか。この項の「手段の制限」を、「自衛戦争は可」と解釈して自衛隊がある。

 紛争という用語は、コソボフォークランドのような戦争としか思えない武力衝突ばかりでなく、言い争いのレベルも含む。例えば「集団的労働紛争」は、会社側と労働組合の揉め事がもつれたときに使う。英語の「dispute」は、アメリカ人が口喧嘩の意味でも使っていたのを覚えている。


 おそらく、私も含めて大半の現代の日本人が、自衛隊の存在に拒絶反応を示さないのは、一つは災害救助の実績、もう一つは紛争があるにせよ無いにせよ、安保条約との組み合わせで、抑止力になっていると一安心しているからだろう。少なくとも、第9条の変更・削除に絶対反対の立場をとる方々はそうだろう。

 現実は過去、国が言い出した自衛権を国民も総論で認め、幸い戦争や内乱はもちろん、深刻な国際紛争にも巻き込まれず、ここまで無難にきた。しかし、周知のとおり上記のとおり、近年、周辺国のお行儀が良くない。

 どれほど良くないのか、素人にはなかなか分からず、ひたすらに腹の立つような報道が流れ続けている。その中で、遠からず私たちは9条のあるべき姿についての判断を迫られるかもしれない。その際、現状がこうだから、憲法をそれに合わせようという論法を、私は支持しない。




(おわり)



隅田川の花火  (2016年7月30日撮影)










































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