前回から、自分が読んだ本の紹介を始めています。本日は長谷川三千子著「九条を読もう!」(幻冬舎新書)。著者は数年ほどまえから、何かとネットやメディアを賑わせてきたお方で、大学教授・哲学者。
右に大きく偏っている人には、ありがたい応援歌になりそうな内容だが、なにせ職業が職業だから論理的なので(理屈っぽい)、短いからと言って決して読みやすい書物ではない。慎重に読まないと引きずられるだろう。
「九条を読もう」というタイトルも、ここで言いたいことは、むしろ「九条以外も読もう」ということで、すなわち憲法第九条に書いてあることについて、字面だけで議論を重ねても、もう何の解決にも進展にもならないということであり、その点については仰る通りだと思います。
ただし、読むに際にしては、私自身は以下のような心構えで読んでいるので、参考になったら良いなと思いつつ書き残す。哲学者は(哲学の研究者ではない)、自分だけが正しく世の中の全てを理解している(少なくともその途上にある)と確信していなければ務まらない。これは、現役の哲学者からお聴きした。
それを証明するためには、いかなる説だろうと神だろうと持ち出して、持論を主張してやまない。日本の哲学者は、というより世界中そうだろうが、西洋の哲学が基盤としてあり、人によっては西洋の哲学だけが、哲学であるとまで言うのだ(こういうふうに、自分だけ正しい)。これを議論と論文だけ(つまり言葉)で証明する。
本書も、徹底して西洋の法学と歴史(わかりやすいく言えば、白人種の思想や言動)の延長上に日本国憲法はあり、また、将来もあり続けるという点で、いかにも哲学者の発想らしい。私自身、ずっと漠然とそう思ってきた。全く異種の憲法があったってよいという今の私のような考え方は、端から相手にされていない。
「交戦権」という法律用語はないという非難がある。実際、無いらしい。でも、見ればわかるでしょう、この言葉。そういう言葉が、憲法にあってはならないという主張を、私は受け付けない。
一例で十分だ。「天皇」は、法律用語ではない。日本で生まれ育てば、十年もたつと天皇が何なのか、説明できなくても大抵の人と共通認識を持つ。一例で足りなければ、「生命」でもいいし、「職業」でもいい。
自衛権が、国連憲章において「重視されている」というのも、そのとおりだと思う。だからといって、権利を放棄することが、国際法に違反するということにはならない。本書の書き方もそこは上手くて、「この九条一項が全面的に戦争を放棄しているのだとすると、日本国憲法は国際法に背を向けた憲法」となっている。
急に日常用語の「背を向けた」が出てくるとは何ごとなのだろう。たぶん国際法違反と言えないからだ。重要な権利の概念を採択していないのは確かですが、そこが日本の憲法の稀有の特徴であることは間違いなく、こんなふうに一刀両断して済ませる問題ではない。
だいたい、この日本国が批准していない国連の条約は、数にして二桁はあるはずだから、あちこちで国連様に背を向けたままである。なお私は今、哲学者を相手に、理屈に対し理屈で反論しようと頑張っているので、適否、善悪の問題ではない。
ちなみに、私見ながら、哲学者は「力」というものが大好きで、権力、神、契約、倫理、超人、無知の知、我あり、何でもありだが、とにかく力への志向が際立っている。たぶん哲学は疑い深くなければできない営みであり、その分だけ自分を支える何物かが必要なのかもしれない。
前文と九条の主題は、仰る通りで「平和」です。彼女は力なしの平和などあり得ないと結論づけており、たしかに人類の歴史は暴力の歴史、これが沙汰闇になる気配もない。でも、現実に大戦争で無数の国民・外国人を死に至らしめた挙句、もう言っちまったではないか。戦争はやらん、と。
それを今、撤回すべき理由が、この程度でよいか。読んで考えていただきたい点は、そこにあると思う。最近では柔和な理想論を、お花畑というらしいが、大いに結構。ただいま日本は(これまではとにかく、と言うべきか)、戦争は止めたと宣言した国に、戦争をしかける勇気はあるかと世界中を脅してきた。もう、そろそろ逃げるか。
私は何年か前に一度だけ、この長谷川三千子先生の特別講義を受講したことがある。ほんの数メートル前でお話しを拝聴した。そのときのテーマが、「道元の時間論」という凄まじいもので、掛値なく面白いものだった。
その時の長谷川教授の印象は、穏やかで笑顔を絶やさず、声も静かで小さいと言ってよいくらいであり、その辺のテレビや雑誌に出てくる同性の改憲論者とやらとは、比べ物にならない品格の持ち主である。というわけで、街宣車的な本ではないから、是非ご一読願う。
(おわり)
1月はツリーの近くから日が出るが、2月になってだいぶ、東に動きました。
(2018年1月7日撮影)
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