我がマンションの最上階からみた夕暮れの富士山です。東京からは、こうして西側にシルエットが見えるのですが、生まれ育った静岡では反対側からみることになりますので、最近ながめておりませんが、夕焼け色が映えて美しい。
この人生も、けっこう長くなりました。子供のころは病弱そのものでしたし、中年以降も多病となって仕事も変わり、それに元々、父方も母方も決して長寿の家系とはいえませんから、その祖父母が他界した年代に自分が達したのが、ちょっとばかり不思議です。
生まれはネズミ年です。来年(2020年、令和二年)もネズミ年だから、暦が還ります。年が明ければ、数え六十一歳、満59歳で還暦を迎えます。この調子であと何年続くやら。
子供のころは、公式にはもうとっくに満年齢で数えることになっていました。明治の初年からです。兵役検査の関係かもしれません。近代国家には戦争用の仕組みがあります。健康診断も、兵役検査と同じような項目が並んでいると聞いたことがある。ガンの心配は、あまりしてくれない。
それなのに、私が子供のころのお年寄りは、まだ数え年と、尺寸で暮らしていました。特に数えは、私が幼稚園で教わったとおり満年齢で答えると、相手がうちの親に、「数えだと幾つだ」と訊きなおしていたのを覚えている。さて、ではなぜ数え年というか。
数字には、二つの機能がある。一つは量を計るときの表示。もう一つは、数を数えるときの表示です。計量の場合は、体重計や温度計が典型ですが、小数点以下もあります。数を数えるときは、基本的には自然数なので、5個と半分というような表現はあるにしろ、小数点以下を正確に示すことはない。
年齢もこの両者があります。満年齢は、生まれてから現在までに経過した時間の長さを計量します。したがって、2歳と3か月というような、小数点以下と似たような言い方もできる。大人になれば通常、丸一年を満たした数で示します。
数え年は、もう一方の自然数を数えるから、数え年です。その人が生きた暦年(最初と最後は、満たしていなくてもよい)の個数です。生まれた年が一歳。ものは一から数えます。零ではない。私のように年末近くに生まれた子は、出生後、間もなく年明けで二歳になる。
かつては「一から出直し」という言い方で数え年的な言い回しをしたものですが、最近の若い世代はむしろ「ゼロからの再スタート」という満年齢的な言い方を好むようだ。率直にいって違和感があります。でも、考えてみれば、全く同じことを言い分けているに過ぎないです。
間もなく新しい年が来る。仕事では、新しいことを始めようと検討中です。私生活では、海外に行く計画を知り合いと進めています。観光旅行ではなくて、慰霊の旅。私の田舎の静岡歩兵連隊が壊滅したガダルカナル。根性入れて頑張らないと。ではよい年をお迎えください。
(おわり)
ワタの花 (2019年11月16日撮影)
When I was a little bitty baby,
my mother would rock me in the cradle
in them old cotton fields back home.
”Cotton Fields” Creedence Clearwater Revival
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