おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ブーゲンビリアの花咲く南の島へ  (20世紀少年 第900回)

 今回はかなり論調が攻撃的というか乱暴というか、素敵な読後感など全く保証できないがせっかくの900回記念なので自分のために書く。最初にお断わりしておくと、私は5年ほど楽しく働いたり遊んだりした国とあって、アメリカは一番好きな外国だが、もちろん何でもかんでも好きだというわけにはない。

 先日、エノラゲイに乗って広島に原爆を落とした搭乗員の最後の生き残りが死んだ。人の死を喜ぶ気にはならないが、しかし、これでもう連中の身勝手な言い分を聞かずに済むかと思うと少しほっとする。


 兵隊になったことがないから分からないが、上官の命令は絶対だと聞くし、逆らうと大変な目に遭うそうだから飛行機に乗ったことを責めても意味が無い。だが無数の非戦闘員を無差別に殺した以上、一生、のたうち回るのが人の心というものだろう。熊谷次郎の話でも聞かせてやればよかったな。

 そもそも、人殺しの機械に隊長のお袋の名を付けるとは正気の沙汰ではない。これから殺戮にいく相手が人間ではないと思っていなければ、こんなことができるはずがない。最後の審判とやらを楽しみに待つが良い。


 これ以上、戦争を続けると自軍の兵士の死傷者が増えるだけだからというのが、今日に至るまで、非道な大量破壊兵器を使ったアメリカの論理である。確かにあらゆる戦争において、戦闘が長引けば犠牲者が増えるという点は否定のしようがない。

 だが、一旦こうして自らの「やり過ぎ」を堂々と正当化したら、敵が同じようなことをし、同じようなことを言ってきても反論できないだろう。このため彼の国では最近、自分たちは戦争をしているのであり間違いではなく、テロリズムは悪であるという言い訳に終始することになった。


 特に酷いのは長崎へのプルトニウム爆弾の投下である。本当に早く戦争を終わらせたいだけだったなら、広島でその効果を確認済みのウラニウム爆弾を使うのが戦術上まともな判断だろう。でもプルトニウム型も作っちまったので試しに使いたくて仕方がなかったのだな。あの時のあの国の軍人や科学者や政治指導者は。

 しかも、わずか中二日である。当時の日本もさすがに原爆の知識はあったらしいから、降伏しないともう一撃、東京に落とすと脅せば、まず間違いなく降参したはずだ。戦争指導者が我が身可愛さで長引いた戦争だったのだから。


 集団的自衛権は、いつかそれが不可欠な国際情勢になるのかもしれないが、今の段階で本当に憲法解釈で導入すべき概念なのか。諸説あるみたいだが一言でいえば、日本が外国のために戦争する権利を、主権在民のわれらが国に与えたと国が解釈するということだろう。

 さらに民間のフェリーを戦時徴用するアイデアまで出て来た。私が生まれる少し前に、もはや戦後ではないと政府は高言したはずなのに、なぜか戦後レジームは残っているようであり、しかももう戦前になってしまった。これが20世紀少年たちの作り上げた世の中だ。僕こそが。戦争とは人殺しを量産する行為である。

 しかし、いきなり戦争を始めたところで、個々の戦闘に勝てることはあるかもしれないが、壮大な殺し合いを制する覚悟も知識もなければ勝てるはずがない。先ずはアメリカの大学のように、軍事や外交を若い人にきちんと教えなければだめだと思う。それがバカな戦争を避ける近道だ。


 祖父の話に移る。太平洋戦争が始まるまで、祖父は小さな木工場を営んでいた。七八人の若いのを使っていたそうだが、全員、徴兵された。生き残ったのは一人で、あとは全て戦死。犠牲者の中に跡継ぎ(つまり、私の伯父)も含まれている。ただ一人生還した若者は実家の商売を継ぐと言って去り、工場は空襲で全焼して祖父に残ったのは妻(私の祖母)だけだった。

 やむなく戦後は一労働者となり、木工職人として別の工場で働き始めた。ようやく次男(二人目の伯父)が生まれたが、数え年一才で病死した。せめて家長は欲しいということで、血のつながりのない伝手まで求めて、養子縁組したのが私の父である。誰より好きだった祖父と私はDNA的な血縁がないが、そんなことは実にどうでも良い。


 問題は伯父である。そもそも、通常の意味で戦死と言えるのかどうか。実は何時、何処で、どのような死因で亡くなったのか分かっていない。たぶんテニアン島らしい。出陣したとき、そう言っていたらしいから。エノラゲイが発着した島である。そのテニアンのどこが最期の地なのかも分からない。

 お骨が無い。遺品もない。生き残った戦友がいるとも聞いたことが無い。亡くなった兵隊さん向けの恩給は出ていたということだから、国もその死は認めたのだろう。しかし墓石に刻まれている死亡日は昭和二十年九月となっており、国がもう生きていないとみなしたときは、もはや戦後である。

 送られてきたお骨入れの木箱に骨壺は無く、石ころが一つ入っていただけだそうだ。靖国神社の名簿にも名前が無い(正確を期せば、数年前に見た遊就館の名簿)。伯父が人を撃ったかどうかも分からない。それどころか生年月日も享年も生まれ育ちも分からないのだ。伝わっているのは彼が腕の良い職人で、人柄も優れていたため祖父が見込んで跡継ぎに選んだということだけだ。


 これほどの理不尽さを嘆くこともなく、祖父母は私を叱ったり可愛がったりして生き、死んでいった。祖父はその工場から帰宅する途上で、わき見運転のトラックにひかれて死んだ。そしてもう、祖父母とも私とも血の繋がっていない伯父を知っている人は、私が知る限り一人もいない。このままでは骨壺のない墓石しか残らない。

 でも、仮に彼が戦死しなかったら私は生まれていない。だから、準備が整い次第、私はテニアン島に行く。きっと私の好きなブーゲンビリアがたくさん咲いているだろう。伯父にゆかりの何かが見つかるとも思えないが(ゆかりかどうか、私が判断できないのだから困ったものだ)、同じ地面を歩いてみたい。




(この稿おわり)








ブーゲンビリア。2009年、久米島にて。







 いまどこかで兵士が傷つくということ    


          谷川俊太郎 「生きる」より

































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