幼いころの思い出は少ない。実家は貧しいなりに、穏やかな家庭ではあったと思うが、父が病弱で知っているだけでも十数回、退職と再就職を繰り返し、合間は自宅療養だった。このため、祖父と母がパートで働き、祖母が孫の面倒にも駆り出され、というふうに慌ただしい家だった。
前にも書いたような気もするが、自分の一番古い記憶は、二歳のとき。以下のことが起きたとき、三歳下の妹がお腹の中にいたと母が記憶しているので、きっと私は二歳のはずだ。この通り沿いの道で生まれ育った。今となると狭くて短い道だが、あのころは全世界に等しかった。以下、写真は2018年12月30日の撮影です。
祖父母と両親に加え、実家にはコロという名の性別不明で、おそらく和犬の雑種であろう犬コロがいた。どこかに入ってしまったが、コロとようやく歩き始めたころの私が写っているモノクロームの写真が一枚だけあった。
コロは極めて行儀の悪い犬だったそうで、どこかのうちに渡したかったと、いまだに母は言う。しつけがなっていなかったらしい。祖父だったか父だったか、どこからかもらってきて、大工の祖父が犬小屋を作った。今にして覚えば、綱で犬小屋につなぎっぱなしで、犬が好きな散歩を誰か毎日やっていたような記憶はない。
それがコロのストレスになったのか。ある日、私が起きたときコロはいなかった。母に訊いたところ、「近所の人にかみついて、保健所に連れていかれた」という返事があり、二歳のくせに私は事態を理解した。保健所という言葉も知らないのに、もう戻ってこないんだなと思った。戻っては来なかった。
まだ破傷風の予防接種が法定ではなかったころらしい。当時としては、どうしようもなかったのだろう。例え行儀が悪くても、コロは私には穏やかに接していたから、何一つ嫌な思い出はない。
二番目の記憶は三歳児の東京オリンピックなのだが、母が言うに白黒テレビにかじりついて離れなかったほどであるらしい。変わっとらん。もっとも、1964年の東京オリンピックは、その後も果てしなく繰り返し再放送されているので、いつ何を実況中継で観たのか、いまさら分かりません。
次の思い出となると、幼稚園の入園式。当時の幼稚園は二年制だったので、四歳で入園し、六歳で卒園しているはずだ。幼稚園と小学校のころは父親譲りか、ひどく病弱な子で、遊んでは熱を出すという有様。親の記憶では、あとニ三日休んだら、進級か進学かができなかった学年が、少なくとも二回はあったらしい。
入園式といっても一場面しか覚えていない。祖母に手を引かれていった幼稚園は、なぜかお寺のような形をしていた。上の写真そのままの記憶が鮮明に残っている。ちなみに、園長先生が住職で、遊び場のそばに墓苑があった。今もある。昔はきっと寺子屋だったのだろうと思う。
名前は静岡市の三松幼稚園と言います。県内に同名の幼稚園がいまでも浜松方面にあるが、別のもの。私が通ったほうの三松幼稚園は、何年前か知らないが、廃園になってしまった。ネットで地図や航空写真を見られるようになってから調べたのだが、どうも様子がおかしい。
それで、帰省時に立ち寄ってみたのだが、教室が幾つかあった平屋の建物は、もう廃墟になっていた。誰かが同じように中を見たかったようで、窓ガラスが一部、埃をふき取ってあったが、室内は材木置き場のごとしであった。
少子高齢化の影響が大きいのだろう。市内でも小学校や中学校の合併が多く、他の地方でも同様だろう。私の場合はまだしも小・中・高・大の各校が、同じ場所、同じ名前で健在なので、恵まれている方なのだ。
当時この銀杏の木の下で、よく遊んだものだ。遊ぶと言っても、遊び道具が何かあるわけでもなく、手作りのおもちゃだの刀だの、それもなければ、ただ走ったり飛び降りたり、墓場をうろついたり(すみません)、とにかく時間も空間も無限にあるようだった。
担任は飯塚先生。美人。おそらく二十代前半で笑顔を絶やさない穏やかな先生だった。この幼稚園で知り合った子のうち、後の学校で同じクラスになったのは意外と少なく、ニ三人しか知らないし、今でもメールで連絡を年一回ぐらい取っているのが一人だけ。実家が引っ越したのも大きい。
これがその幼稚園があったお寺の山門で、なかなか古風で立派なものです。徳川家が江戸初期に建てた。家康の逝去とともに、側室が出家し、このお寺を手配してもらったらしい。水戸黄門さまは、血のつながった彼女の孫にあたる由。
卒園して小学生になってから、一度だけ、この幼稚園の運動会に行ったことがある。妹の在園時だから、一年生か二年生のころのはずだ。会場でいきなり飯塚先生に会ってしまい、「大きくなったねえ、元気?」と二十四の瞳のように言われてしまい、返事のしようがなくて全速力で逃げた。爾来、美女は苦手とする。
先述の今もただ一人、連絡があると書いた人は、遠いし住所も知らないのでメールだけの付き合いだが、五年ほど前に「医者からガンで余命二年と言われた」という連絡が突然来た。それ以来、負担にならないように年一回だけ連絡を入れている。
余命二年のわりに、まだ健在(のはず)であり、少なくともメールの返事は明るい。だから、池江璃花子さんもきっと大丈夫だと勝手に決めております。この幼馴染とは大学のころ同級会で久々に会ったが、たいへんな美形になっており、もっと早く予約しておけば良かったのに手遅れであった。三人ほど野郎どもが争って彼女を自宅に送っていった。
この立派な池も、当時の私たちには単なる遊び場だった。祖母は私が卒園式を迎える前に、心臓発作で夜中に急死した。祖父は小学校三年生のとき、仕事帰りに交通事故で他界した。二人ともまだ還暦前後だった。コロと祖父母をこうして亡くし、私の心はどこかに隠し部屋のようなものでもでき上がったのだろうか、物心ついてから泣いたことがない。
何十回も葬式や法事に出ても泣いた試しがないのだから、冷たい人間だと思われたこともあるかもしれないが、ウソ泣きもできないしねえ。あのころ遊び場や運動会場だと思っていた広場は今もある。幼稚園の敷地ではなくて、陸軍墓地であることを後年知った。
(おわり)
胸にさがったハンカチの
君の名前が読めたっけ
「おさななじみ」 作詞 永六輔
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