おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

終戦記念日  (第1118回)

 戦争の話題を続け過ぎて、正直なところ疲労して参りました。今回で一区切りの予定です。本日8月15日は終戦記念日。別のブログかSNSだったかもしれませんが、かつて私は終戦記念日ではなくて、「敗戦記念日」だろうと書きました。

 これは別に自虐ではございません。ただ単に、子供のころから、日本軍は全面降伏して占領されたのに、何だか「負け惜しみ」みたいで、みっともないなと思っていたからです。今年に入って戦死した伯父の軍歴を調べたり、元兵士の手記を読んだりし始めるまで、ずっとそう思っていました。


 でも最近は、そう思わなくなりました。周知のとおり、降伏文書の調印は翌9月2日ですし、国際法上、終戦が確定したのは1951年に締結されたサンフランシスコ講和条約です。ポツダム宣言の受諾を通知したのは、前日の8月14日でした。

 それでも、当時の国民にとってみれば、戦争が終わったという実感を得たのは、やはり1945年の8月15日のはずです。それに、敗戦に「記念日」は適さないが、この長く苦しかった戦争が終わったのは、多くの人にとって記念すべき日であったと思います。慰霊の日を定めるなら、やっぱりこの日付だ。


 玉音放送に泣いた人も多いと聞きます。きっと悔し泣きでしょう。それでも、どこか心の片隅で、ほっとしたという感覚があったとしても、不思議には思いません。うちの母もそう申しております。

 たいぶ前に書きましたが、1945年6月の空襲で、静岡市内にあった母方の実家は全焼しました。深夜とあって、火の中を逃げている間に、七人家族が散り散りになってしまった。


 それでも、母親(私にとっての祖母)は五人いる子供のうち、一番目と二番目に幼い小学生の娘(私の母と叔母)の手を離さず、隣町の清水まで走って逃げました。隣の市といっても、歩くのが好きな私でさえ、若い頃でも歩いたことがない距離なのです。故郷は遠い夜空で燃えていたそうです。

 こんな目に遭えば、戦争が終わって安堵する人がいても当然のことでしょう。ちなみに、父はその8月に15歳になり、動員を覚悟した途端に終戦です。日本中で、世界中で、やっと終わったと思った人は無数にいるはずです。それなら終戦記念日のほうがいいや、と今では思います。


 うちの両親ぐらいの世代は、戦前戦中に学校で軍事教育を施され、近所の軍国主義じいさんに威張られて、さんざん嫌な思いをした年代ですから、戦争が終わってからコロリと態度を変えて、親米になった大人たちに反感を持ったという話もよく聞きます。

 それでも、そのときの大人たちだって、内心もう逃げたり死んだりする危険も去って、喜んでいたと思いますし、つい、はしゃいだ奴もいたでしょう。以下は時代も土地も異なりますが、少しばかり似たような話を聞いています。


 かつて駐在したカンボジアは、ベトナム戦争真っ盛りの1970年代前半に、アメリカの傀儡である将軍ロンノルの政権下にありました。聞いただけですが、おそらく金はどっさり米軍から出ていたのでしょう、ずいぶんと腐敗した政治が数年間、続いたそうです。

 これを放逐したのが、共産主義諸国の支援を受けたクメール・ルージュ軍、日本でいうポルポト派です。首都プノンペンの市民は、大歓迎だったらしい。写真や映像も残っています。きっと「人民解放軍」のごとく、彼らの目には映ったのだろうと思います。そのすぐあとに、強制移住とジェノサイドが始まる。


 これと比べれば、あるいは、今なお南北に分かれたまま、現時点で、軍事的緊張が高まっている朝鮮半島の両国と比べれば、あえて乱暴な言い方をしますが、戦後の日本はまだしも結果的に、運が良かったほうだと思います。戦争が終わっても、戦死した人は戻りませんが、嘆いてばかりもいられない。

 運が良いといえば、いま生きている我々すべて、さかのぼれば無数のご先祖様がいるわけで、その中にはうちの両親のように、一つ間違えば子孫を残す前に死んでいた人もたくさんいたはずですから、わしらは強運です。




(おわり)




平和そのもの岐阜山中  (2017年7月21日撮影)








 粉々に砕かれた鏡の上にも
 新しい景色が映される

     「いつも何度でも」  木村弓

       この歌が好きだった年下の友人が
       先日、事故で亡くなりました。
       冥福を祈ります。










































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