おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

山越し  (第1211回)

前回の続きです。私が沢に沿って歩いた山古志の中心部より、その沢は南側を流れている信濃川に向かって流れ落ちている。とはいえ、中心部にいて眺めても信濃川や平野部が見えるわけでもなく、実感としては盆地です。どこへ行くにも、峠を越え、トンネルを抜けて行く。上記の川沿いの道も、中越地震のときは土砂崩れで通行止めになってしまった由。

昼前に「おらたる」で道を聞き、「地元の人も歩かない」らしい距離と勾配に挑戦すべく歩き出す。道は往路に小・中学校の職員さんに車で送っていただいた車道を逆に北へと進むのだが、さっそく立ち止まることになった。道端にある野菜の直販所のみなさん(女性数名)から、さっきも通ったねとか、どこから来なさったと声を掛けられ、黙って通り過ぎるわけにもいかなくなった。


お店は午前中だけで、そろそろ片付けるというから、店頭の写真を撮らせていただき、前列左から二番目の「大しょうが」を買うことにした。値段を訊いたお相手は「さて」と仰り、少し離れたところにいた生産者に「生姜は幾ら?」と尋ね、「えーと、300円」という返事だった。

資本主義貨幣経済化における商業ではないらしい。なお、「あそこが崩れたんだよ」と指さして教えてもらい、すぐ目の前にある、15年前の土砂崩れの場所を見た。なるほどそこだけ高木はなく、草と灌木だけに覆われている。


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大しょうがを受け取って御礼とお別れの辞を述べたとき、後ろに車が止まった。車内には女性が一人、運転席から「途中までで良ければ乗っていかないか」と声を掛けていただく。その途中とは、今の私が目指している昼食所があるはずの虫亀という地域であった。

これは偶然の渡りに船なのではなく、乗せてもらった車の運転手は、先ほど「おらたる」で「スーツを着た男」が、虫亀を目指して無謀と思われる山道登りをしていることを聞いたそうだ。

スーツと言ってもビジネス用の上下そろった背広ではないが、慰霊にいくときは、それ相応にきちんとした格好を心掛け、このときはジャケットにスラックスという姿。「おらくる」には何か届け物があったそうなので、どうりで本日は虫亀の食堂が開いていると知っていらしたわけだ。こうして往路に引き続き、復路も地元のお世話になった。


車中でお話を伺うに、震災のときもその地域にいらしたそうだ。運の悪い外部の方々もいて、その次の日は名産の錦鯉の品評会を予定していたため、一日早く入っていた買い手や素人のカメラマンのみなさんまで、山古志村からで出られなくなった。

ただし、もともと山村とあって水は山から湧き出してくるし、燃料の材木もあるしで、みんなで煮炊きをして救助を待っていたらしい。「あの津波のほうが、よほど辛かったように見えた」とのことである。みなさん、生活力があるから、布団やら七輪やら持ち寄って、励ましあっていたらしい。


聞くところによると、災害のあとに「ハネムーン期」というのがあるらしいが、これは直後からのことだ。そのあとが大変だったはずなのだが、被災地の方は深刻な苦労話は滅多になさらない。こちらからも訊かない。むしろ被害が大きかったのは、谷沿いに住んでいた人たちで、土砂崩れの犠牲者も出たし、今なお水没したままの民家もある由。

さすが車は速い。店舗の前で停車して「ここまでで申し訳ないけれど」と仰られ、こちらは平身低頭のうえ、「ここで食事ができる店があると聞いたのですが」と最後のお願いをしたところ、彼女は私の左側にある窓の外にある店を指して、「これ。うちの店」。おかみさんでいらした。


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お店は結構、混んでいた。一人で空いているテーブルに座り、山古志カレーなるスパイスの利いた昼ご飯をいただく。その近くにバス停があったのだが、次のバスが二時間ほど先だったので、もう少し山途を歩くことにした。幸い峠はそう遠くなく、やがて逆の方向に流れている沢が見えた。そしてトンネルが二つ。

この二本目がけっこう長く、しかも野生動物らしき臭いがする。夜は鹿や猪の獣道になるのだろうか。そしてトンネルを抜けると、そこには「キケン」という看板があった。注意せよと言われても、歩行者は何をどう注意すればよろしいのでしょうか。これはたぶん、歩くなという警告でございましょう。次のバス停に着いたら、そこでバスを待つことにした。


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一人ぽつねんとバスを待っていたら、私と同じくらいの年代の女性が来て、この旅も前回の石巻もずっとそうだったように、向こうの方から挨拶をしてくださる。同じことを都心でやったら、危ないおじさんになるのだ。

バスを待つ間だけでなく、乗ってから長岡の駅前まで、ずっとお話しを伺うことになった。いったん家族でこの山中の村落から避難したものの、御尊父だけは一人で元の家に戻り、こうして娘さんが時々、様子を見に来る。


災害のあと長く苦しんでいる人たちや、逆に順調な生活を取り戻しつつある人達は、「その日」が近づくと、よく報道される。でも人数的に多いはずの、このように不本意な形で暮らしが変わってしまった方々の現在は、テレビやPCの前に座っていても分からない。

伺ったのは子供のころ、一晩で3メートルぐらい積もることもある雪で遊んだ話、あのトンネルは地震後にできたもので、昔は沢沿いに歩き山を越えて山古志の「角突き」(押し相撲の闘牛)に父親が通っていたこと、子供の数がすっかり減ってしまったことなどなど。


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彼女は駅に、私はホテルに行くため駅前でお別れした。上の絵はお世話になったホテルMETZの廊下にあったもの。ちと見づらい写真だが、左から錦鯉、棚田、闘牛の絵。

今回も予算の都合上、コンビニの握り飯とサンドウィッチでしのぎ、この日の山古志カレーが道中、一番のご馳走になった。さて、あともう一回、最後の日に廻った長岡市内の資料館の話題で締めくくりと致します。



(おわり)



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山古志カマキリ  (2019年10月30日撮影)



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中越の夜明け  (2019年10月31日撮影)








黙りとおした 年月を
拾い集めて 温め合おう

  襟裳岬」 森進一/吉田拓郎






















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