おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

地下鉄の駅へと急ぐ夏  (第1161回)


【前半】 ほかの場所に書き込んだ文章を転載します。


 古くからの知り合いに、定年で退職するまで、児童福祉の公的な業務をしていた人がいる。ちょうど、その離職のころに、厳しいお仕事だったでしょうという話をした。当時、子供の虐待が相次いで報道されていたからだったと思う。

 その人いわく、暴力も大変だが、現場で一番困っているのは、育児放棄だということだった。ネグレクトと呼ばれている。件数的にもこちらのほうが多いと言っていたように思う。
 
 それも氷山の一角かもしれない。肉体的な暴力であれば、お医者さんがケガやアザに気付くかもしれないし、近所が泣き声を心配して通報するかもしれない。だが、育児放棄は外から見るのも聞くのも困難だ。

 さらに、暴力行為は、親をとっ捕まえるなり、子供を保護して切り離すなりで、中断させることが可能だが、育児放棄は往々にして、親に罪悪感が欠けており、指導しても、しばらく子供を福祉の施設に預かっても、なかなか改心せず、戻すことができないことが少なくないそうだ。


 児童福祉の関係者、特に児童福祉相談所は、虐待事件が起きるたびに、激しい批判にさらされる。いい加減にした方が良い。特に命を救えなかった事件が起きたとき、彼らは黙って攻撃に耐えるほかない。

 警察だって、家屋に踏み込むには裁判所の令状が必要だ。公権力に土足で家に踏み込まれては堪らないからだ。日本の警察は、そんなことしないけれど。丸腰の福祉関係者が、狂暴かもしれない親に会いに行って説得などするのにも限界がある。

 もちろん、再発防止には全力を尽くしていただく。だが外野は黙りんさい。世の中には成功しても褒められず、失敗すると激しく責められる厳しい仕事がある。為り手がいなくなっては困るではないか。

 暴力と放棄の両方を一身に受けて、五歳の女の子が悲痛な手紙を残して世を去った。医学的な死因は知らないが、私に言わせれば餓死だ。

 親は泣く子も黙る警視庁の捜査一課を泣かせた。これから身の毛もよだつような取り調べが始まるのだろう。それにしても、救けてあげたかったよ。



【後半】 昨年、遠藤賢司さんが亡くなって、ここで何時どういうことを書こうかと考えあぐねていたが、歌詞をお借りしよう。少し、立ち直るために。

 花柄模様のワンピースの女の子が 母親と手をつないで歩いてる

 僕が追い越そうとすると その女の子はビルの谷間にそびえたつ

 あの入道雲にも負けないくらい大きな声で

 「あのね、私、お母さん大好きよ、そしてお父さんもね」

 僕の足音に 母親は小さな声で

 でも、つないだ手を大きく振りながら、「ありがとう」

 地下鉄の駅へと急ぐ夏 僕はチラッと入道雲を見上げながら

 ふるさとの母につぶやいた 「ありがとう」 そしてお父さんもね


      「地下鉄の駅へと急ぐ夏」   遠藤賢司




(おわり)




同じ形の雲と木々 お二人に合掌  (2018年5月24日撮影)

















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