前回からの続きです。最初に、巨大不明生物らしきものが見えたのは、東京湾海上の山水画のようなお背中であったが、はっきりとゲテモノであることが分かったのは、その尻尾であった。
新ゴジラの新兵器は、何と言っても、この長大な尻尾であろう。あの動きでは、硬い骨はあるまい。私がこの目で見た中で、一番その形状と運動が似ているのは、イトミミズだな。無機物も含めれば、思い切り水を流しっぱなしにしたときのホースが、ああなる。全方位攻撃が可能だが、下手すると自分を斬るなあ。
この尻尾が火を噴いたのには驚きましたね。まるで本体とは別の「何か」のようでもあるが、一応、エネルギーの伝達経路が発光してくれるため、少なくとも動燃機関は共有している。見せかけ巨大ロボット一号と同様、核分裂で動く。ラジオ・アイソトープは自家製らしく、確かに究極の運動体だ。
ところが上陸は不慣れらしく、個体発生は系統発生を繰り返すの格言どおり、まるで地球上の生命(特に動物)の進化の過程を、ただの一代で辿る。最初の奴は、赤腹井守に似ている。全体に、シン・ゴジラは目付きが悪い。特に、後段の攻撃時に鮫の目のように反転したのには参った。
現実的過ぎると述べたが、例えば、上陸後は自重を支えきれないはずという件や、分子構造について等で、延々と議論が続く。いや、何だって有りだ、で片づければよいのに。どうせ正体不明なのだから。
でも、きっと現代の鑑賞者は、そういう点にうるさいのだろう。それに答えたそうな監督でもあり、誠実ではあるが、とにかく日本語という言語も、日本人の喋り方も、あれだけの情報量を、てきぱき伝えるようにはできていない。このため早口映画になった。その間、ゴジラはちゃっかり休み休み。よく寝る。
ゴジラ映画の王道を外すことなく、核攻撃は避けた。これだけは、日本で映画を作る限り、譲るわけにはいかない相談である。その替わり、冷凍した。取り急ぎの対症療法に過ぎないが、仕方がない。原発と同じである。
普通はエンジンなり心臓なりが止まれば、気温と同じになるはずなのに、ゴジラは絶対零度に近いほうまで冷えた。この理屈が私には分からん。血液凝固剤というものが使われたが、あれはラジエータを停めただけではないのか?
ともあれ幸いなことに、ゴジラが自家製造する放射能は、半減期が2か月ぐらいと解析された。計算間違いではありませんように。そうでないとしても、半減期は半減期であり、放射線量は半分になるだけだし、その倍の時間が経過してもゼロにはならない。
口から洩れる放射線量が人体にとり、速やかな影響が出ないレベルだとしても、それは対外的な現象であって、ゴジラの中には放射線物質が残っているのだ。それは同じ動きができるほどの残量ではないかもしれないが、ちょっとしたことならできるかもしれない。例えば、尻尾だけ充電するとか。
うちで飼っているメダカも、産卵の季節を終え、寒くなって来ると、すべてではないが、ほどんどは死んでいく。生き物の摂理というものはそういうものだ。ウスバカゲロウの成虫には、口すらない。
劇中ではゴジラが、生死の概念を超えているのではないかという懸念が出ているが、そもそも私たちも含めて、ここでいう生死とは個体の活動と末路のことであって、種はそういう生死の概念とは無縁である。そしてゴジラは、われわれの尺度でいう一回の生命で、「まるで進化」のようだった。
映画の最後は、尻尾の先っちょの大写しで終わる。人影のごときものが幾つか。背中には、ゴジラ特有の背びれと似たものが生えている。モデルはステゴザウルスだろうが、もっと禍々しい印象を与えるものだ。ミノカサゴのイメージ。この連中は何なのだ。写真だけ出て来た「博士」は、東京湾から、どこに消えたのだろう。
この映画の最後に出てくるスクラップ・アンド・ビルドは、日本の美点みたいに言われており、反論はしないが、何も日本・日本人だけのお家芸ではない。メダカもウスバカゲロウも、残った僅かな力で、次世代を再生する。ゴジラだって、その気になればやるだろう、スクラップ・アンド・ビルド。核兵器で本体を破壊するということは、エネルギーも供給差し上げて、産卵を手助けするようなことになりませんように。拙宅も東京ですし。
(おわり)
五條神社の入口の桜 (2017年4月15日、上野にて)
ジジババの店もどき (2017年3月2日、新宿にて)
お国は 俺たち死んだとて
ずっと後まで 残りますよね
失礼しましたで 終わるだけ
命のスペアは ありませんよ
「教訓Ⅰ」 加川良 合掌
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