おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

しんゴジラ 【前半】 20世紀少年と比べてみる  (第1095回)

 最初に、前回の続きですが、上野公園で撮った写真を掲げる。このポスターの絵が、バベルの塔の想像図の一つらしい。さすが東京都美術館、いい勘してるぜ。

 映画「シン・ゴジラ」は、きっと音響が凄いだろうなと思い、映画館に観に行きたかったのだが、そのために最初のゴジラ映画(1954年)まで借りて観て準備したのに、多忙やら体調不良やらで上映の期間が終わってしまった。


 と思ったら早速レンタルが始まったので、二回観ました。もう期限切れで返却したため、以下は記憶に頼るので細部の間違いはご寛恕ください。さて、前にも書いたように庵野総監督と浦沢画伯と私は、同じ1960年の生まれだ。

 才能の違いはさておき、同じ時代を生きて来た。ゴジラのシリーズは生まれる前から始まっているが、少年時代におけるその影響は大きい。「20世紀少年」の場合、少年ケンヂはゴジラに息子ができたことにショックを受け、メスだったのかと残念そうだ。確かに、あれで女性では...。

 母親役の姉キリコは生物学に詳しいため、そうとも言い切れない可能性を知っており、ただバカな弟に説明する面倒を避けているのだが、後年、わたしはゴジラと自己紹介しており、結局、性別問題は先送りになっている。さて、庵野ゴジラはどうか。


 コミックス第12集で、山根は「新・よげんの書がいいかな。それとも、真・よげんの書かな」って真剣に議論をしたフリをしたものだと述べ、罰が当たっているのだが、よげんは外れ続きで「真」とは言い難く、「しんよげんの書」は登場人物からも、たぶん多くの読者からも「つづき」と解されている。

 映画「シン・ゴジラ」も公開前からネットやマスコミで、「真か新か神か」についてはエンドユーザーの自由な解釈を許すという寛大なネーミングであるとの前口上があった。生物(のはず)に真偽もあるまい。近ごろ無闇に目につく「神なんとか」と同レベルでは、ゴジラに失礼であろうということで、私にとっては、やっぱり「新」だな。


 ハリウッド資本の醜悪なゴジラの造形に辟易した身としては、さすが天下の東宝、本家本元の威信をかけて、しかもちゃんと2時間で収まる娯楽作品に仕上げてくだすったのには深謝する。今後も社運をかけて継続願いたい。にっかつも、始めましたぜ。

 娯楽作品と言っても、「シン・ゴジラ」はアナログ人の私にとって、情報過多である。特に字幕が続出する武器・兵器の名と、政治家・官僚の役職名は、読んでいるだけで疲れる。それに加えて、生物学と物理学の理論・用語のオンパレード。エヴァ同様、一握りのオタクさんの研究用になるだろうな。


 現実的過ぎるのも考えものだ。私のように初代のゴジラが海中で一休みしているシルエットに、ファンタジーを感じるようなガラパゴス映画鑑賞人間にとっては、息も付けない展開というのも、程々に願いたいというのが正直なところだが、映画館に行っていないので偉そうなことはこの辺でやめておこう。

 初代のゴジラが滅びたとき、主人公の科学者は、その名を山根というのだが、核実験が続く限り、次のゴジラがまたくるだろうという不気味な予言を残し、しかも当たりが出た。それが理由なら半島の北国に上陸すればよいのに、また東京か。確かに、壊し甲斐はありそうだが。

 最初に壊されるのは、またしても海ほたるで名高い東京湾アクアライン。「これからやるんだよ」とオッチョが大見得を切った「風の塔」もしっかりと写っている。東京の弱点は交通網です。しかも行き先に、木更津の自衛隊がある。


 さて、ここで唐突であるが、内田樹さんの著作から、今回のテーマに沿った引用をする。「おじさん的」思考(角川文庫)。

 これらの「地球滅亡危機一髪」話に共通するのは、主人公たちの並外れた強運と奇跡的な偶然によって、かろうじて危機が回避された、という説話構成である。危機は「たまたま」回避されたにすぎぬのであり、本質的な危機は、つねにいまもそこにある(だからこそ、多くのパニック映画では、その災厄が再び私たちを訪れる「予兆」がラストシーンに示されている)。  (「人類の滅亡」という悪夢の効用)


 勘が良いお方は、既に「シン・ゴジラ」のラストシーンが目に浮かぶだろうが、ここは急がず「20世紀少年」ではどうか考える。危機はとりあえず回避されているが、災厄の予兆はある。

 敷島博士の娘ほか狂信者の群れは健在だ。そう言う高須の腹の中には、”ともだち”の子がいるらしい。ウィルスの在庫もあるかもしれない。それに、肝心の反陽子爆弾が、テーマパークに埋められたままだ。この爆弾が本物かどうかは、この際、問題ではない。あの忌まわしいヴァーチャル・アトラクションも、まだ稼働する。


 映画が現実的過ぎるという感想は、はやり他の人(たぶん年配者に多いはず)も持ったようで、特によく話題に上がったのが、主に官僚との闘いになっていることと、進行中の原発事故の影響だったかと思う。

 官僚(広く公務員という意味では政治家も自衛隊も含む)や学者という専門家群は、仮にも現実にこういう事態が起きたとしたら、やっぱり彼らの出番なのである。一科学者が解決してしまえる時代ではない。

 ただし、多くの政治家は専門家というよりも調整役であり、本来は全体を統率すべきであって、肝心な時にヘリコプターに乗って現場を荒らしたりしてはいけない。このため映画でも早々に、総理ほか官邸諸氏お歴々の影響力を、一瞬で減殺しており、あとは専門家集団の自律運動に任せている。




(つづく)




エンパイヤステートビルみたいのにも春来る
(2017年4月12日、渋谷にて撮影)




葉桜の季節に君を想うということ
(2017年4月15日、上野にて撮影)




 あの日の映画、「ダーティ・ハリ―」はどうでした?
 君はニュースのほうが 楽しそうだったけれど
 クリント・イーストウッドって いいでしょう
 今度も学割で見られたらと思います

    「加川良の手紙」 吉田拓郎



















































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