おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

パティ・スミスのインタビュー記事  ”HOW DOES IT FEEL”  (第1076回)

 1946年12月30日、渦巻くような激しい吹雪の中、シカゴの町で私は生まれました。陣痛の母を連れてタクシーを呼んだ父は、車の窓を開け放したまま、運転手に湖畔通りの道案内をする羽目になりました。私は弱々しい赤ん坊で、父は生まれたばかり子の呼吸が止まらないように、バスタブの湯気に私を当て続けました。まもなく私の70歳の誕生日。その日にバンド仲間や、息子と娘と共に、シカゴにあるリビエラ・シアターのステージに立つ時は、きっと両親を思い起こすことだろうと思います。

 感情的に捻れた雰囲気の中で、私たちを振り回してきた今年の大統領選の期間中も、私は進んで仕事に没頭し、家族の求めに応じつつ新年に備えていました。しかしながら、私にはシカゴの予定の前に、2016年を締めくくる大事な舞台が控えていました。今年9月に連絡を受け、ノーベル賞の式典において、文学賞受賞者の栄誉を祝して歌ってもらえないかというお話しがあったのです。その時はまだ受賞者が誰か分かっていませんでした。ストックホルムでの滞在は二三日の予定で、海が見える綺麗なホテルとくれば栄えある機会、熟考する機会、創造する機会です。私はオーケストラが演奏するに適していると思われる自作の曲を選びました。

 ところが、その受賞者がボブ・ディランで、本人も受けるという発表があり、もはや自分の曲を歌う場面ではないと感じました。思いも寄らなかった状況に身を置かれ、複雑な心境になりました。彼が欠席するというのに、この役を担う資格が私にはあるのか。ボブ・ディランに、嫌な思いをさせてしまわないだろうか。それだけは避けようと思ってきた相手なのに。それでも受けて立とうと決意を固めたとき、私が歌うために選んだ曲は「激しい雨が降る」です。十代のころから慈しんできた歌。今は亡き夫が好きだった曲。

 その瞬間から、寸暇を惜しんで練習に励みました。歌詞の全てを覚え、それを聴衆に伝える自信を得るためです。私の息子の瞳は青い。その言葉が出てくる歌詞を、私は自分に向けて歌いました。何度も繰り返し、原曲のキーで、喜びと決意を胸に。この曲を、作られたときと全く同じに歌おう、そして私にはそれができる、そう心に決めました。スーツを新着して、髪を整え、これで準備はできたと感じました。

 ノーベル賞の式典の朝は、心休まらぬ目覚めでした。外は大雨で、ずっと激しく降り続きました。着替えてから、仕上げにもう一度歌って心を落ち着かせました。ホテルのロビーで、素敵な日本人の女の人に会いました。伝統の衣装。淡黄で床に届く丈の着物と草履。髪は見事に結ってあります。彼女が私に話してくれたところによると、生理学・医学賞を受賞するボスのお祝いに来たのだそうです。あの天候でしたから、不安気でした。彼女にお伝えしました。素敵です。どれほど雨が降ろうと風が吹こうと心配ありません。

 コンサート会場にたどり着く前に、雨は雪に変わりました。オーケストラとのリハーサルは、完璧でした。私の衣装部屋は、ピアノが置いてある個室です。お茶と温かいスープが運ばれてきて、皆さんが演奏を楽しみにしているのがわかりました。何もかもが目前に迫っているのです。

 母を想いました。16歳のとき私が初めて手にしたボブ・ディランのレコードは、母が買ってくれたものです。安売りの店で、バーゲンの箱の中に置かれたそのレコードを見て、「おまえが気に入りそうな男に見えたのよ」という理由により、貯めた小銭で買ったのだそうです。私は何度も何度も、そのレコードをかけました。好きになった曲は「激しい雨が降る」です。それを機に私は変わりました。アルチュール・ランボーとは時代を共にしかなったけれど、ボブ・ディランとは同じ時代を生きている。夫のことも想いました。この歌を一緒に歌ったときのことを思い出します。コードを押さえている彼の手。


 そして突然、その時が来ました。楽団が控える劇場の桟敷に、国王と王室の方々、受賞者のみなさんが着席しています。私は指揮者の隣に腰掛けました。その晩は式次第どおりに進行しています。座ったまま思い浮かべました。過去の受賞者が国王から賞のメダルを受け取るため歩み出る姿。ヘルマン・ヘッセトーマス・マン、アルベルト・カミュ。そのとき、文学賞受賞者としてボブ・ディランの名が呼ばれ、私の胸の鼓動が高まりました。心のこもった彼へ賛辞が読み上げられ、次に私の名が呼ばれて立ち上がりました。まるでおとぎ話のようです。スウェーデン国王ご夫妻や、世界中の偉大なる精神の代表者たちの前に立ちました。我が手に携えし歌は、これを書いた詩人がその一行一行に、自らの体験と精神の躍動を潜ませた作品です。

 前奏の和音が響き、歌い始めた私の声が、自分の耳にも聴こえてきました。歌い出しは、何とかなりました。少し声が震えましたが、やがて落ち着くだろうという自信がありました。ところが反対に、私は抑えきれない感情におそわれ、これは手に負えないと感じるほどの雪崩のような激しさでした。視野の片隅に、巨大なカメラの延長台が写り、臨席の要人や遥かに観衆のみなさんが見渡せます。神経がこれほど抗い難いほど過敏になることに慣れていませんから、それ以上、歌い続けることができなくなりました。すでに私自身の一部となっているその歌詞を忘れてしまった訳ではないのに、それを引き出すという唯それだけのことができなくなってしまったのです。

 この不可思議な現象は、消え去るどころか、酷なことに私から離れません。歌を止めざるを得ませんでした。非礼を詫び、その状態のままで再び歌うことに決め、相変わらずつっかえながらも、全身全霊で歌いました。この歌が語りかける「十二の峰からなる霧降り山脈の麓で私は躓いた」で始まり、「私は自分のどの歌も、歌い始める前から知り尽くしていることだろう」で終わる歌詞は、いまなお私に対し力を持っていました。席に戻ったときは、しくじった恥ずかしさで胸が痛みました。一方で、それとともに、どういうわけかあの曲の詞の世界に入りこんで生きたような不思議な感覚を覚えました。

 そのあとの祝賀会で、私は在スウェーデンアメリカ大使の向かい側の席に着きました。大使は美しく明敏なインディアン系アメリカ人です。この場での彼女の役割は、ボブ・ディランからことづかった手紙を、宴席の混乱の中で読み上げることでした。非の打ち所がない彼女の朗読を聴きながら、「彼」は強力な女二人を味方につけているなと、つい考えてしまいました。うち一人は歌い損ね、もう一人は淀みなく話し終えましたが、二人とも彼の作品に力添えをしたい一心であったのです。

 翌朝、目がさめると雪が降っていました。朝食の部屋で、私は大勢のノーベル賞を受賞した科学者から心遣いの挨拶を受けました。みなさん、私が人前で繰り広げた悪戦苦闘を賞賛してくれたのです。良かったと言われました。もっと良くできたらよかったと応えました。それは違う、われわれ誰もが、あれが良かったのだと思っているというのが彼らの返事です。彼らにとっては私の舞台が、右往左往している自分たち自身を、そのまま見ているようだったということです。その日一日、暖かく声かけてもらい、ようやく私も最後には、自分の務めの何たるかを表す、さらに実のある言葉が幾つか心に浮かんで来ました。なぜ私たちは、仕事にいそしむのか。なぜ私たちは、演奏をするのか。それは何より聴く人に、楽しみと新しい何かを伝えるため。それが全てです。あの歌は何かを求めているのではない。あの歌の作者は何かを求めているのはない。そうならば、なぜ私が何かを求めることがあろう。

 夫のフレッドが他界したとき、私は父にこう言われました。時の流れは人の心の傷を癒しはしないが、それを耐え忍ぶ手立ては教えてくれる。そのとおり、これまでに大変な出来事があっても、些細なことであっても、父の言葉は正しかった。これからのことを思うとき、私には確信があります。この激しい雨が降り止むことはない。そして、私たちは皆、気を抜くことなどできないだろう。年の瀬も押し迫っています。来たる12月30日、私はバンド仲間や、息子と娘と共に、生まれた町で「ホーセス」を演ります。見てきたことや経験したこと、今まで覚えた全部は私の内にあります。私が抱え込んだ痛恨の念も、喜びとともに、辛さとは違う想いを呼び起こす時時に融け込んでいくのでしょう。70年にわたる大切な記憶の数々、70年におよぶ私の人生です。




(おわり)




 Oh, where have you been, my blue-eyed son?
 Oh, where have you been, my darling young one?

         ”A Hard Rain’s A-Gonna Fall”

          written by Bob Dylan
          performed specially by Patti Smith







出典: THE NEW YORKER  "HOW DOES IT FEEL" 2016年12月14日
http://www.newyorker.com/culture/cultural-comment/patti-smith-on-singing-at-bob-dylans-nobel-prize-ceremony

文責: 私


寒い冬です (2016年12月21日撮影)









































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