私は雨男だ。肝心なとき、狙いすましたように雨か雪が降る。今年の春、2016年4月21日の夜、渋谷にボブ・ディランのコンサートを観に行った日も、オッチョがハチ公前のスクランブル交差点を渡っていた時は晴れていたのに、私の場合は春雨に濡れて参ることになった。
文化村のロビーに着くと、「はげしい雨が降る」が流れていた。なかなか鋭い選曲ではないか。この歌に出てくる「青い瞳の息子」、「血の滴り落ちる黒い枝」といった歌詞を聴くと、ビリー・ホリデーの「奇妙な果実」を思い出してしまい、果てしなく暗い気持ちになる。
しかし、オーチャード・ホールに入るころ、曲は「時代は変わる」に代わっていた。そうそう、救う価値のある世界なら、石のように沈んでしまう前に泳ぎ渡らなくては。なお、ボブ・ディランを世に送り出したジョン・ハモンドは、ビリー・ホリデーのプロデューサーでもあった。「ボブ・ディラン自伝」には、ハモンドが世話した数多くのミュージシャンの筆頭に彼女の名が出てくる。
その「自伝」(以下、カッコ書きの引用は、他に断りがない限り、この自伝が出典です)の表紙にある白黒のタイムズ・スクエアの写真には、移転する前の「キャピトル・シアター」のネオン・サインが写っている。これを書いている前日(2016年10月13日)の出演者は、ジョーン・バエズだった。写真をみれば、素敵な歳のとり方だ。
昨日はハード・デイズ・ナイトで、仕事で疲れ切り酒も飲まず、9時前に寝てしまった。夜中の2時半ごろ目が覚めてしまったのだが、わがガラパゴス・ケータイが、ウルトラマンのカラー・タイマーのごとく点滅している。ニュース速報のメールが届いていた。「ノーベル文学賞にボブ・ディラン氏」。あらー。そういえば、そんな話は昔からあったのだが。
この自伝にはジョーン・バエズも出てくる。「悪い考えを追い払ってくれる声。まるで別の星から来た人のようだった」。ディランは、エルビス・プレスリーも異星人扱いしている。心臓発作で倒れたとき、危うくあの世でも会うところだった先輩だ。
私の業務用キャビネットには、生まれて初めて買ったブルー・レイの映画「ウッドストック」が放り込んである。この平和と音楽の三日間のフェスティバルに、ジョーン・バエズも出ている。彼女の夫デイヴィッドは、1969年の夏、政治犯だった。ベトナム戦争の徴兵拒否のためである。仲間とハンガー・ストライキをやり、郡の刑務所から連邦刑務所に移されたらしい。この時代に、たいした度胸だ。
客席に向かい、「みんな安心して。デイヴィッドも『私たち』も元気だから」と言って彼女は、自分のお腹をポンポコと叩いた。妊娠しているのに、夜明け前のステージに立ち、何曲も唄ったのだ。そのデイヴィッドは、ショーグンのごとく手かせ足かせで看守に脅かされながら連行されたらしいが、連邦刑務所では「待遇が良くなった」と喜んでいるとの連絡があったらしい。
さて。初めてボブ・ディランのアルバムを聴いたのは、もう1976年になってからで、前にも書いたが友人に借りた「欲望」だった。さらに、「動くボブ・ディラン」を初めて観たのはいつだろうと考えたが、バングラデシュのコンサートは見ていないから、たぶんザ・バンドの「ラスト・ワルツ」だ。主役じゃないのに、別格扱いであった。
そのころ読んだ「ローリング・ストーン誌」に、「ボブ・ディランとジョン・レノンは別格だ」と書いてあったのを、今でもよく覚えている。そりゃそうだろう。このお二方のおかげで、貴誌は一体どれだけ売れたのだ。
今ではスマホで動画サイトを簡単に覗ける時代だが、20世紀田舎少年にとっては、外国の歌手や俳優が動いたり喋ったりするのをテレビで観る機会など、ほとんどなかった。次に彼を見たのは、おそらく1980年代半ばの「We Are The World」だったはずだ。
その練習風景と本番の収録が日本でもテレビで流れたのだが、レポーターのジェーン・フォンダが、何度もミュージシャンのことを「アーチスト」と呼ぶのが煩わしかった。コーラスの会なのに、大げさな。ボブ・ディランは、短いパートの担当なのに歌詞カードらしきものを見ながら、例のごとく、つっけんどんに歌っている。
年表風になってきたが、その次が本物で、1988年前後にロサンゼルスの野外コンサート場まで、ボブ・ディランを見物に行った。世に聴くべき音楽は多いが、見物に値する歌手は少ない。延々と前座が続き、いつの間に交代したのか、「追憶のハイウェイ61」が聞こえてきて、ようやくご本尊だと分かった。この作品は、ロバート・ジョンソンの曲作りに影響されたものだ自伝にと書いている。
その日は挨拶もお喋りもなく、最後に「ライク・ア・ローリング・ストーン」を会場のみんなと歌って、アンコールの隙も与えず黙って帰宅した。他の客も見物が主目的だったようで、ブーイングをするような野暮な客もいないまま閉店。いつ見ても変人というのも、当節、得難い人材であろう。
これだから、今年のコンサートでは、初めて歌以外で、彼の肉声を生で聞いた。途中の休憩時間で(お互い歳を取りました)、珍しく客席に一声かけたのだが、不意を突かれて聞き逃した。日本語のようだったが...。そのあと彼がバンドと共に帰って来たあたりで、隣席の中年女が、立ち上がってスマホで写真を撮り始めた。
後ろのお客さんたちは、さぞや迷惑だったろう。何枚か撮ったところで、案内係の娘さんに見つかり、大声で叱られたのに無我夢中で気付かない。やむなく私は右の手の甲で、彼女の左肩をひっぱたいて止めさせた。声をかけるのも煩わしい。しかし、女を殴ったのも何億年ぶりか。
このツアーでは、ボブ・ディランがフランク・シナトラを始め、古典的なポップ・ソングなどを歌って話題になった。自伝ではシナトラの「ひき潮」が好きだったと言っている。「フランクがこの歌をうたうと、彼の声の中にさまざまなものを聞きとることができた。死、神、宇宙、そべてのもの」。死も聞こえたか。
しかし、ボブ・ディランの最大のヒーローは、「ガスリーの最高の弟子になろう」という誓いを立てさせたウッディ・ガスリーだった。彼に惹かれるように、若き日のディランは東海岸に向かっている。そのガスリーはニュージャージー州にある「希望のまったくない精神病院」にいた。
このニュージャージーの或る暑い夜、警察に捕まり、殺人罪で終身刑になったプロ・ボクサー、ルービン・カーターを歌った「ハリケーン」が、中学生のときに聴いていた「欲望」に入っている。長くなったので、続きは明日。
(この稿おわり)
夕暮れ時 (2016年10月9日撮影)
例え今日は果てしもなく
冷たい雨が降っていても
巡る巡るよ 時代は巡る
「時代」 中島みゆき
I saw guns and sharp swords in the hands of young children,
and it's a hard, and it's a hard, it's a hard, it's a hard,
and it's a hard rain's a-gonna fall.
”A Hard Rain's A-Gonna Fall” Bob Dylan
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