おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

元首とは何だ  (第1043回)

 前文に長居したので、そろそろ本文に入ります。その前に一言だけ。改正草案には、さりげなく現行憲法にはない「目次」も新設されている。正確に言うと目次は、約10年前の改正案(前回の②)の段階で、既に差し入れがあった。ただし、十年前にはなかった「緊急事態」という章が、最新案には在る。章のレベルで追加したのだ。力が入っている。またあとで触れる。

 第1条は、現行も改正草案も、天皇という法制度の条文である。改正草案は本条に限らず、現行憲法にはない各条の見出しが、カッコ入りで付されている。比較すると次のようになる。上の青字が現行、下の黒字が改正草案。


【現行】

 第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。


【改正草案】

 天皇
 第一条 天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。


 相違点は、実に分かりやすい。「日本国の元首であり、」が加わっただけ。他は追加・変更なし。でも、せっかくだから、この機に「象徴」とは何かを考えてみた。ハトは平和の象徴である。本来、鳩という鳥と、平和は何の関係もない。たぶん、ノアの洪水のエピソードから来ているのだろう。オリーブの葉をくわえたハトが、煙草のピースの箱に描かれている。

 大英帝国の象徴はライオン。トラファルガー広場にライオンの像がある。これをマネた三越の店の前にもいる。トラしかいない土地なのに、シンガポールと名付けた。ビールのシンハーも、シハヌーク国王も、日本語の獅子も語源は同じ。イギリスとライオンも関係ない。


 でも、多くの人が受け入れれば、何かが何かの象徴になるのだ。そうしたい事情とは、平和を例にとると抽象的で絵にも描けないので、鳩のような物理的に存在するものに託す。かくて、大阪万博の開会式でも、漫画「巨人の星」の背景にも、ハトの群れが飛んだ。

 こういうのは、別に人畜無害なので(もっとも、ハトは結構、攻撃的な鳥である。個人的には、スズメやツバメのほうが好きだ)、どうぞご自由にということになっているが、こと憲法となると、かねて憲法学者の間でも、象徴とは何ぞやという議論が絶えないらしい。上手く誤魔化したのだろうから、統一見解は出ないだろう。


 誤魔化したというのは乱暴な表現だが、大日本帝国憲法の時代に元首と明記されていた天皇を国の制度として存続させるにあたり、何らかの支障があったのだろうか、元首という言葉は使わず、でも平民にするわけにもいかず、政教分離では公務員にもできず、悪くない響きの言葉を探したのだろうな。

 学者は整理がつかなくて困ったろうが、少なくとも私は、そしておそらく大半の日本人は、生活上、これで全く困っていない。この「何となく誰よりも偉い」という雰囲気は、物事を曖昧に済ますのが好きな国民性にうまく働いた。それを、結党以来の自主憲法制定が悲願であるという政党が、元に戻そうと決意したのだ。


 なお、十年前の新憲法草案に、元首という言葉はない。だから、この点に限れば、結党以来の悲願なのではなく、最近出て来たものだ。この意図が、さっぱり分からん。そもそも、元首という言葉自体、幾つかの辞書やネット情報で調べてみたものの、それぞれ云うことが違う。敢えて言えば、英語で「Head of State」というのだということぐらいしか共通点がない。

 国家元首ともいう。「Head of State」では、字面だけとるとカリフォルニア州知事も元首だ。地方自治体の長とされる知事や市長などは、首長(くびちょう)と関係者は呼ぶ。よく似た発音の組長などは、あたまともいうらしい。位置も機能も、動物の生体で最高位にある。代表するものという言葉を使っている説明もある。それを借りよう。


 現時点の私がはっきり言えることといえば、この代表者たる国家元首とは、国によりその定義なり地位なり(つまり、誰が・何が元首なのか)が異なる。これだけは正しいと断言する。なんせ、君主国と共和国では違うと、広辞苑にも書いてある。オーストラリアは自他ともに認める独立国だが、国家元首は昔の親分、イギリス国王だ。外国人が代表者というものありだ。

 そもそも、二百年以上前の日本のように、他国との近代的な外交が無いとか、どうでも宜しいとかいう国では、国内のボスは必要でも、対外的な代表者たる「元首」という概念も存在も不要だろう。だから、押し寄せた欧米諸国も混乱したようで、そのせいだろう、当時の万博には藩の単位で出店している。


 いろんな政体の国があるのだから、バラエティに富んでいて当然だとして、では、オープンな外交を志す国としては、国家元首が自国はもちろん、相手国にも必要であるらしい。例えば、うちの新任大使が、向うの誰に辞令を届けるのかといった事柄。外交にとって、形式は極めて重要である。

 現行憲法には、元首の規定がない。しかし、戦後何十年、外交の場でものすごく困ったという話は聞いたことが無い。もちろん、国家機密的なものは外に出ないから、私が知らないだけで皇室当局や外交当局は、苦労があったのかもしれない。でも少なくとも、憲法になくても片付いてきた。つまり、他国が実質的に誰が元首なのかを疑わなわなければ問題ない。


 無くても困らないから変えなくてよいという意見と、あっても困らないなら変えても構わないという意見は、どちらも一般的に、それ自体は大間違いではないので、いくら議論を重ねたとて、いつまでたっても線路のように平行線をたどるだけだろう。写真は常磐線

 しかし、無くても困らないというのは私にとっては正しいが、あっても困らないというのは正しいのか。これまで困らなかったのは、すでに実質的に天皇陛下が元首であるという点について、国交のある国々に異論がないからこそであり、だから新任の在京大使は安心して皇居で馬車に乗れる。


 元首であると憲法に明記して本当に困らないのか。それとも規定がないと、どこかの誰かが困るのだろうか。これは長年、与党を務めた実績があり、改正草案を作成した政党に、ぜひ説明してもらいたいです。まず、憲法に元首と書くと困るのかという点はどうだろう。これだけで軍国主義に逆戻りというのは、軍国主義ではない他国の元首に失礼だろう。

 一方で、愛すべきウィキペディアによると、中国や北朝鮮の最高権力者も元首だそうだ。ついでに言うと、議長とか主席とか呼んでいるが、英語名は「President」で欧米の大統領と同じだから、確かに自称するにおいては、元首にふさわしい。天皇を元首にすると、この連中と外交上、同格になるが、それでも大丈夫か。いろいろ言ってきそうな嫌な予感がするが。



 では、元首がいないと困るのか。その北朝鮮だが、今から20年ほど前、日本列島越しにミサイルを飛ばし、三陸沖に落ちたらしい。今なお、失敗し続けている。材料燃料が尽きない限り、成功するまでやるのだろうな。当人たちすら、どこに飛んでいくか分からないのに。

 あのとき、自衛隊が何をしたか正確に知る由もないが、少なくとも戦火は交えなかったはずだ。憲法上、日本に軍事力はない。というより戦争はしないと明言しているのだから、現行では宣戦布告できない。自衛隊にできるのは、侵略者を退治することだけのはずだ。


 でも、この改正草案がそのまま実現すれば、「自衛」なら戦争ができる。国防軍がある。そして国交を断絶する行為を相手に通告することができる(つまり内外が認める)としたら、元首が宣戦布告するしかないだろうと私は考えるな。


 現に太平洋戦争のときは旧憲法下で、昭和天皇の御名により、真珠湾に際し宣戦布告しているそうではないか(見たことはないが)。もっとも僚友アメリカの実績づくりのおかげで、国際的に宣戦布告は不要になったらしい。それでも、国内における法令の公布(軍への出動の命令など)は不可欠だろう。

 旧憲法と比較すると、もう一つ駒が足りない。あの統帥権という、これまた法律家泣かせの不可思議な権力であるが、ともあれ、戦闘行為は元首が総帥となって戦う必要は全くなく(国内問題だから)、実質上の最高権力者が、人と金と物を動かすことになる。



 誰がそれを行うかについては改正草案において、日常的には第9条第2項に定めがあり、また、いきなり侵略されても、ちゃんと緊急事態条項に書いてあるから、ひとまず安心であるらしい。人違いだけは、起きない。

 国民主権に欠かせない機関である国会の承認も、何せ「外部からの武力攻撃」等の緊急事態なのだから事後承諾で構わないそうだ。これは便利だ。有能で自制が効く人が内閣総理大臣で、司令官になるなら。

 そして対外責任は元首にある。少なくとも、戦争相手や戦場にされた国はそう取るだろう。そういう議論や主張は、実績がある。それに国を守る義務は、前文案によると日本国民の皆さまにある。そういう国に私たちはしたいか、どうか。


 ただし、侵略戦争を受ける立場になる可能性が、永久にゼロにはならないことを前提に考えなければならないのが極めて難しい。そこは第9条で考えます。なお、解説によっては、元首とは「行政府の長」を指すというのもある。何時でも何処でも誰にでも、いろいろな解釈ができる言葉なのだ。





(おわり)






ツバメの巣。  (2016年6月4日撮影)




















































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