おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

千代に八千代に  (第1044回)

 今回は雑談や、好き嫌いの話も交える。いつも堅苦しい文章ばかり書いていると、頭が疲れる。岐阜県の美濃地方に、揖斐川町という町があり、その西部にかつて春日村と呼ばれた山村がある。うちの親戚一同が暮らしている。山あり谷あり緑あり。ときどき山菜や筍、鹿や猪の肉などが届く。

 伊吹山山麓に位置し、反対側は近江だ。いぶきやま。良い名である。東に琵琶湖を望み、南に下れば関ヶ原。北に進むと山岳信仰で名高い白山があり(都内の白山通りは、この東京支所みたいな神社に由来する)、南に木曾三川のひとつ、揖斐川が流れている。この春日に、さざれ石がある。さざれ石公園まである。


 何年か前にそこに行ったのだが、撮ったはずの写真が見つからない。でもインターネットに複数のサイトがあるので、見たことが無い人でも画像なら確認できる。中には「本物のさざれ石」と断言している地元のサイトまである。いかなる鑑定の結果、本物と分かったのか不明だが、関係者には些末なことなのであろう。

 本物が否かが問題になる場合とは、偽物や他に本物と言われるものがある場合か、まだ本物が見つかっていないが、あるはずと思っていたら、それらしきものが出て来たときだろう。本件はどうやらその両方であるらしく、長らく「君が代」に出てくる「さざれ石」が特定されておらず、近年になって方々(ほうぼう)で見つかり、本家本元あらそいが起きているのだろうか。


 でも、そもそも大きな「さざれ石」は、実在してよいのか。「さざれ」とは漢字で「細」と書き、小さいという意味である(広辞苑他)。さざなみも、ささやかも、語源は同じだろう。小石が巌になり、さらに苔むすまでという「君が代」の歌詞の意味するところは、長い長い年月のことであり、その暗喩として「さざれ石」その他は使われている。

 これは「君が代」の歌詞二番、「君が代は ちひろの底の さざれいしの 鵜のゐる磯と あらはるゝまで」も同様である。一番は堆積岩の形成過程だが、二番は更に深海底の隆起に及んでおり、プレ―ト・テクニクス風のダイナミズムに溢れている。昔の人がそんな地学の説など知るはずがないのいうのは、不当な評価である。たまには、下を向いて歩こう。化石は至る所で見つかる。


 いずれの歌詞も「さざれ石」がスタート地点なのだが、辞書的な意味にこだわるまでもなく、小石でなければ、それが塵も積もれば巌になるという長久なる時の流れを表すことはできない。

 だから、いま名乗っている「さざれ石」という巨岩は、もう大事な世が、かなりのところまで経過しており、あとは苔むすだけというのでは時間の問題になってしまう。そこいらの小石こそ、さざれ石である。


 ちなみに、明治時代にできた「君が代」の歌詞は、われらの「Hatena Keyword」の「君が代」にもあるが、実は少し長い。

一番: 君が代は ちよにやちよに さざれいしの 巌となりて こけのむすまで うごきなく ときはかきはに かぎりもあらじ
二番: 君が代は ちひろの底の さざれいしの 鵜のゐる磯と あらはるゝまで かぎりなき みよの栄を ほぎたてまつる


 良く知られているように、この一番はポピュラー音楽で言うと、カヴァー・ソングのごときもので、「元歌」は「古今和歌集」の「賀歌」にある。おめでたい歌。「古今和歌集 巻七 賀歌」で検索していただくと、その筆頭に出てくるのが「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」であり、最初の句の表現が少し違うだけで、ほとんど同じ。

 興味深いのは、読み人知らずであることだ。しかも、この一首だけではなく、巻七の筆頭から続けて四首が、「知らない人」の作品だと言っている。読み人知らずは、本当に作者不明であるばかりではなく、プライバシーやら採用数のバランスやら、気遣いの結果、匿名になっているものもあるというのが通説らしい。

 巻頭から四つという事態は、後者のゴースト・ライター的な事情がふさわしいように思う。ではなぜ、四つなのかというと、極めて荒っぽい推測であるが、「古今和歌集」の選者が何人もいることと、偶然の一致ではないように思う。「仮名序」を書いた紀貫之は、いわば編集長だろう。仮名序には代表的選者として、彼を含む四人の名が挙がっている。


 国文学はほとんど知らないが、うちの近所に住んでいた正岡子規が、「再び歌よみに与うる書」を著し、それに「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にこれあり候。」と書いた(というより、吠えたというべきか)ため、仮名序は読んでみたことがあるのだ。

 その最後の方に、この四首の賀歌に出てくる「はまのまさご」と「さざれいしのいはほとなる」が出てくる。おめでたい歌ともあって、引用しているのだろう。石川五右衛門も学のある人だったのか。読み人知らずが、明治の国歌にまで上りつめたのは、こういう事情を反映してのものではなかろうか。


 それが敗戦で一旦は国の歌と国の旗が迷子のようになり、別に私は困らないというのは前回と同じだが、それにオリンピックでも当然のごとく、このコンビで使い続けていたのだけれど、政府は困ったようで1999年に国旗国歌法が施行された。法律で、「日章旗」(日の丸)と「君が代」が国の旗と歌になった。

 一緒の表現を使っては畏れ多いと思ったのか、どこにも書いてないが、日の丸も君が代も、国の象徴である。象徴でないのなら、改正草案の第一章「天皇」という象徴天皇制を定めた章に、次のような第三条が来るはずがないと思う。天皇の「て」の字もない(第二条を飛ばしたが、次回にまわします)。


(国旗及び国歌)
第三条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。


 第一項は、国旗国歌法とほぼ同文である。ここに再掲する必要があるのは、第二項が言いたいからだろう。私は国旗も国歌も尊重するが、しかし憲法に命令される筋合いはない。何度でも繰り返すが、憲法は国家権力の歯止めのためにあるという前提でこれを書いている以上、日本国民の側に、義務や責任が無闇に増えるのは大反対である。

 憲法には国民の「三大義務」というのがある。他にもいろいろあるという保守の論者が居るようだが論外。うちのPCで憲法を「義務」で検索すると、第三章の表題である「国民の権利及び義務」、また、天皇や公務員の義務を定めた第九十九条を除くと、やはり三か所だけ、教育と勤労と納税である。

 このうち教育と勤労は、権利と抱き合わせなので、権力者側は教育や勤労のための制度や施設(小学校や労働基準監督署)をつくり、運営しなくてはならない。さすがに納税の権利というのはない。黙っていても、税務署は動く。


 上記の三つの義務を、日本国民が憲法により自らに課している理由は、これらをサボると国が立ちいかなくなって、国民が困るからだ。言い換えれば、そういう必要性が無いのなら、義務の定めを増やすのは不要であるばかりでなく、主権在民である限り憲法の趣旨に反する。

 国旗や国歌はあったほうが良いが、尊重しなければならないという義務規定は必要ない。大切なものだからという事情で、そう書きたいなら、なぜ第一条の天皇陛下のところには書かないのだろう。


 卒業式の国旗掲揚や、国歌斉唱に応じない公立学校の教師というのは、確かに私も気に入らない。かつて軍国主義に使われたことがあるという理由だけで、教え子を前にして所属組織のルールに従わないというのは教育者がやることではない。私立の学校に転職すればよい。

 かといって、法律を作ってまで強制する方も、もし「市立学校だから、市の旗と市の歌を使ってください」などと、屁理屈だが筋は通っている質問をされたらどう答えるのだろう。



 この下書きを書いているのは、「海の日」の祝日である。海に行きたいな。かつて国民の休日は、「旗日」とも言った。庶民の家に日の丸が掲げられ、中には正月のように車のナンバー・プレートにも飾っている人もいたものだ。

 あのころと比べると、ずいぶんと「日の丸」も「君が代」も出番が減ったような感じがする。オリンピックやワールドカップで観客席の頬っぺたには、よく見かけるが。象徴は尊重されて、初めて使われる。心配無用なのでは。


 正直いうと、子供のころ「君が代」は、ちょっと暗い歌だよななどと言い合った覚えがある。「星条旗」や「ラ・マルセイエーズ」は威勢が良いから、表彰式など聴けば、子供は今でも、そう思うやつがいておかしくない。

 でも戦争や革命の歌は、歌詞が血まみれである。それと比べて、「君が代」は長閑で良い。日の丸もシンプルで良い。だから国旗・国歌はこのまま使えばよく、尊重しなければならないなどと、誰が命じているのか知らないが削ってほしい。




(おわり)



麦わら帽子  (2016年6月27日撮影)































































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