おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

Stand By Me  (第1036回)

 寄り道続きで、映画の感想文です。先日、ロサンゼルスのフリーウェイ10号で、夜景を観ながらドライブをするのが好きだったと書いた。ある晩、カー・ラジオから、ジョン・レノンが唄う「スタンド・バイ・ミー」が流れて来たときのことを覚えている。少し感傷的になった。彼が死んでから、まだ六七年しか経っておらず、私も若かった。

 この曲が入っている「ロックンロール」というアルバムは、今も実家に置いてある。これはカバー曲集で、ジャケットの写真はジャケットを着たデビュー直前のジョン。1961年の姿。ベン・E・キングが、「スタンド・バイ・ミー」をリリ―スしたのもこの年。


 「スターティング・オーバー」にそれほどの感銘を受けなかったこともあり、私にとってジョンの最後の曲というと、この「スタンド・バイ・ミー」だ。しかし若い世代には、オリジナルのほうが知られているだろう。映画の題名と主題歌になった。1986年の作品で、ちょうどLAで働き始めたころ、映画館で観た。セリフが半分も分からなかった。「メール・ボックス・ベースボール」には笑ったな。そのあと二三回ほど観ている。

 原作はこれも先般、話題に出したスティーブン・キングで、中編小説の「The Body」、意味は死体。原作の時代設定は1960年、映画はなぜか1959年。歌手のキングの曲が世に出る前だ。作家のキングは、人生の大半の時期をメイン州で過ごしているようで、そのためかこの小説の舞台もメイン州である。


 これもなぜか映画では、オレゴン州での出来事になっている。北米大陸の反対側。私が州都ポートランドに半日滞在したときは快晴で、緑がまぶしかった。メタセコイアの巨木が育つ土地だ。この映画で鮮烈な印象を残して去っていったリヴァ―・フェニックスは、このオレゴンで生まれている。

 映画に川が出てくる。深い渓谷で、落ちたら助かりそうにない。長大な鉄橋が架かっている。昔の田舎とあって橋の上も単線だ。それまで木漏れ日あふれる林道を歩いて来た若者4人は、バックにジョンが好きだったバディ・ホリーの「Everyday」が流れている間は、冒険旅行も順調でご機嫌だった。歌詞が「君のせいで毎日がジェットコースターだ」ときたとき、目の前に橋が現れる。


 語り部は、主人公が長じて物書きとなった大人のゴーディで、リチャード・ドレイファスが穏やかに演じている。最初に彼を観たのは多分「ジョーズ」。次が「アメリカン・グラフィティ」か、「未知との遭遇」。彼によると、この冒険譚はもうすぐ13歳になろうとしているときのことだ。

 4人組は小学校を終えた最後の夏休みを過ごしており、立ち木を利用して作った基地で遊んでいる。木造だし入館には合言葉も必要で、原っぱの秘密基地より格調が高い。間もなく中学生になる。このため、徒歩旅行の間にゴーディと、彼がベスト・フレンドと呼ぶクリスは、進学や将来の職業のことを真剣に話し合っている。二人とも事情があるのだ。


 ゴーディの兄は、アメリカン・フットボールの選手だった。代表チームのクオーター・バックに選ばれたというから本物だ。だが、この物語の4か月前に交通事故で亡くなった。映画では兄弟の羨ましいほど仲睦まじい様子が描かれており、酷く傷ついている弟に対し、混乱した父は残酷な言葉を投げつけ続け、母は悲しみに沈んだままだ。

 一行は近道を狙った挙句、沼に嵌り血吸いビルに喰いつかれて、もっとも被害の大きかったゴーディは気を失った。我に返ると仲間たちが、これで帰るの帰らないのと騒いでいる。大人になっても何故か分からないと本人は言うが、ゴーディは自分一人でも行くと宣言して出発してしまった。


 何処へ行くのか。クォ・ヴァディス。この物語は少年たちのアドベンチャーということになっているらしい。どうだろう。仲間の一人、テディは「youth」という言葉を使っている。ロー・ティーンの男子、見てくれは大人からすれば、確かにまだガキだ。背が伸びるのも、声変わりするのも、もう少しあとのことである。

 だが、否応なく小学校を追い出されるし、ようやく性欲を覚えるころになって、つい先日まで一緒に手をつないで帰宅していた娘たちが、視線を合わしてさえくれなくなる。煙草を吸い、汚い言葉を交わす。目立ちたがる。このたびは、死体を見つけて英雄になり、勲章をもらってテレビに出るのだ。
 

 ゴーディが前に向かって歩み始めたのは、兄の死と対峙するためだろう。実際に亡骸を見つけたとき、彼は感情の抑制が効かなくなる。これまで我慢に我慢を重ねて来たのだ。そして、ここに来た甲斐はあった。彼は英雄になる機会を拒む。邪魔だてする者は命を失うことになろう。

 大人のゴーディによれば、夜通し歩いてホーム・タウンに戻ったのは夏休み最後の日曜日で、9月第一月曜日の祝日、レイバー・デイの前日だった。予期せぬ通過儀礼を乗り越えて、労働者の日に間に合うタイミングで、戻ってきた町は前より小さく見えたという。


 クリスは家庭が荒れていたようで、進学コースを諦めていた。彼もこの旅で捨てたものと拾ったものがある。冤罪に苦しみ続けていた彼は進路変更を決意し、法律家を目指して弁護士になり、最後まで町の治安を守った。立派な奴ではないか。

 アメリカではレイバー・デイが来ると、フットボールのシーズンを迎える。ゴーディの両親は、更に荒れるだろう。でももう、ゴーディが不当なまでに自分を責めることはあるまい。数か月の時をはさんで起きた二つの交通事故死は、彼を変えた。大人になってからの彼の家庭での父子関係は、健やかに逞しく描かれている。

 英語の一人称と二人称の代名詞には性別がない。このため、歌詞はいろんな解釈ができる。ジョン・レノンのカバーも、遠藤ケンヂの曲も、まずはラブ・ソング風だが、この歌に出てくる「me」や「you」は、この映画に出てくる誰であってもいい。クリスであっても亡き兄であっても、その逆であっても構わないだろう。雨が降ろうと槍が降ろうと、人は死んでも胸に残るのだ。





(この稿おわり)





梅雨の晴れ間  (2016年6月23日撮影)




 When the night has come and the land is dark,
 and the moon is the only light we'll see.


 If the sky that we look upon should tumble and fall,
 or the mountain should crumble to the sea.


    ”Stand By Me”   Ben. E. King / John Lennon











これは、ヒマラヤスギ  (2016年6月11日撮影)










































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