おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

二人のロバート 【前半】  (第1013回)

 欧米人の名前は、キリスト教関係の聖人君子に由来するものが多い。それは別にどうということはないのだが、日ごろジョンだのポールだの「さん付け」もせずに呼び散らかして、抵抗は覚えないのだろうか。教会や聖書では、同じ名が信仰目的で使われているのだろうに。

 さしずめ我が国で、子供に空海とか達磨とか名付けて、呼び捨てにしているようなものだろう(今の親は分からんな)。やはり異文化というのは、容易に理解できるものではない。ところで、ロバートという名は私が知る限り聖者にはおらず、英英辞典を引くと「三人のスコットランドの王の名」と出てくるだけ。


 統計を見たわけでもないので単なる私の印象なのだが、どちらかといえばプロテスタントよりもカトリック、特にアイルランド系に多く、そしてユダヤ系にも多いように思う。ロバート・ケネディの一家はアイリッシュカトリックロバート・デ・ニーロアイリッシュの血を引いている。

 ジョン・レノンは作品中の怪しげな医者に、ドクター・ロバートと名付けた。ロバート・キャパや、ロバート・ジンママンすなわちボブ・ディランは、本人の信仰まで知らないがユダヤ系の家庭に生まれている。ディランは子供のころ、父親にロバートと呼ばれていたと自伝に書いている。
 

 ロバートは略してボブやボビーとなる。ジャニスの遺作に出てくるボビー・マギーという名は、いかにもアイリッシュ風だな。きっと欧米人は、人の名を見たり聞いたりしたらすぐに、こういうことを頭に思い浮かべ、ときには好悪さまざまな感情を覚えるに違いない。われわれは全くそういう感覚を持たずして、西洋の音楽や映画や小説に接しているわけだ。

 ボブ・マーリーも親からもらった名は、ボブ・ディランと同様、ロバートさん。二人とも、芸名を決めるにあたり略称のほうを使ったらしい。ディランの場合、この姓の由来は本人が自伝に書いている。それを疑うつもりなどないが、でもなぜファースト・ネームは本名(の略)のままで、ラスト・ネームを変えたのか。


 ここから先は、特定の一個人の話であって人種差別のつもりで書くのではないが、話題は直接それと関係がある。LAで働いていたころ、ユダヤ系の若者がいて、ポール・サイモンを暗くしたような感じであった。私にはとてもよくしてくれたのだが、あまり人付き合いが上手そうではなく、さらに仕事振りも真面目ではあったが、今一つ、アメリカ的な冴えがなかったらしい。

 このため彼について、いつもはジェントルマンそのものである白人の同僚たちが、二言目には「あいつはジュ―だからだめだ」と言っていたのが驚きだった。そういう露骨な表現は、わしら黄色人種や黒人やヒスパニックの個人を非難するときでさえ、使ったのを聞いたためしがない。

 市内にある一流のゴルフ・クラブは、実質的に白人専用だった。日本人は申し込んでも受け付けてくれるだけで、いつまでたってもウェイティング。そして、アメリカ人いわく、その「白人」にはユダヤ人は含まれていないとのことだった。欧州情勢は複雑怪奇である。


 心理学の理論「交流分析」の創始者であるエリック・バーンは、カナダ生まれのユダヤ系で、本来の名はエリック・バーンスタインだった。研究者にお聞きしたところでは、仕事のためアメリカに国籍を移す際、米国には戸籍がないので移民は自由に氏名を選べるため(私の同僚にも何人か居た)、「スタイン」を削って姓を短縮した。

 彼の大先輩であるフロイトは、ユダヤ系であったがために大学教授になれず、生涯、町医者だった由。エリック・バーンも、如何にもユダヤ風のバーンスタインという姓を避けたかったのかもしれないと、その研究者は仰っていた。それほど当時は窮屈だったのだ。俳優も歌手も、本名を名乗れるようになったのは、そう遠い昔のことではないらしい。

 ロバート・ジンママンが、ボブ・ディランになったとき、同じような心理が働いたのかどうかは知らない。本人が何か言わない限り、誰にも分かるはずがない。でも、仮に生まれたときの名前のままだったとしても、彼は世に出ただろう。その手の偏見にこだわらない先輩と邂逅したのだ。


 ボブ・ディラン自伝は、先日触れたように第一章で、契約直後にジャック・デンプシーに会いに行き、それに続いて、契約前のセミプロ時代とでもいうべき日々を語っている。ところがそのあとの章は、時系列がてんでバラバラであり、最後の章にまた契約前後の話が、違う観点から語られている。

 これは、やはり彼にとってもメジャー・デビューが人生の一大事であったことを示すとともに(彼も真っ正直に「凧のように舞い上がった」と書いている)、時の流れの順に頓着しないということは、彼の時間感覚において、聖書から現代物理学に至るまでの常識である「過去から未来へと一直線に時間が進む」という発想が希薄で、むしろインドの輪廻転生みたいなものに馴染みやすいのかもしれない。


 ようやく本題。上記の最後の章について。下積みの奮闘努力の甲斐あって、1961年のある日、彼のパフォーマンスを、コロンビア・レコード社のスカウトが聴いた。ビリー・ホリデーを世に送り出した名伯楽、ジョン・ハモンドというお方だ。ジュラシック・パークの園長先生と同姓同名だが、たぶん関係ない。

 さらに別の日、ニューヨーク・タイムズ誌が前座だった彼を「絶賛」する記事を書き、それもハモンドさんの目に留まった。かくて、詳細は省くが契約交渉に入り、言われるがままに署名して帰りかけたとき、ジョン・ハモンドは成約記念だろうか、レコードを二枚くれたそうだ。まだ一般に出回る前のものだったという。


 そのうち一枚は、ボブ・ディランも良く知っているハーモニカ奏者のウェイン・レイニ―が、これも彼の好みであるデルモア・ブラザーズというバンドと組んで作ったレコード。しかし、他の一枚はそのミュージシャンの名前さえ知らなかった。それを聞いたジョン・ハモンドは、「絶対にそれを聞くべきだ」、「こいつに、かなうやつはいない」とけしかけた。それがロバート・ジョンソンのアルバムだった。

 ボブ・ディランがこれを聴いたときの衝撃と、その後にとった行動については、多くの方がネットに書いているようなので、ここでは詳しく触れない。私の印象に残った部分だけ書くと、「ほかのだれかに聞かせたくはなかった」という彼ならではの感想が面白いのと、多くのロック・ミュージシャンと異なり、ロバート・ジョンソンのギターの音だけでなく、むしろ歌詞から大きな影響を受けていることだ。



 これに先立つこと数年前、ジョン・ハモンドは、私はその経緯を知らないがロバート・ジョンソンの録音を聴く機会があった。

 そして、奴に敵う者はいないと断定したらしい。まず、企画中のコンサートに、彼を出演させることにした。ハモンド氏は気が早くて、相手に会う前から、公演の案内文にその名を載せることにした。


 上の写真がその冒頭部分であり、古い資料なので鮮明さに欠けるが、ジョン・ハモンドの名がみえる。その後の詳細については明日、続きをアップします。思わせぶりにしたいのではなくで、このブログ一回分の容量を超えてしまったので二つに分けるしかないのです。文章がむやみと長いものですから、わたくしは。





(この稿おわり)






世田谷の浦沢直樹展で絵葉書を買ってきました。
(2016年3月3日購入)







ご近所ではツツジが満開の季節。
(2016年5月1日撮影)







 Is this love? Is this love? Is this love?
 Is this love that i'm Feeling?
 Is this love? Is this love? Is this love?
 Is this love that i'm Feeling?

    ”Is This Love”  Bob Marley & The Wailers










































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