おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

コウモリだけが知っている  (第1018回)

 脱線します。去年、マンガ好きの息子に「20世紀少年」を知っているかと尋ねたところ、「名前だけは」という生意気な返答があった。これだから若い者は困る。さらに返す刀で、ビリーバットは面白いが知っているかと逆に質問してきた。同じ返事をしました。いま連載中とのことだ。

 もっとも、先般の浦沢直樹展で「BILLY BAT」の原画(であったと思う)を観たので、絵柄は知っている。私の世代でコウモリのフィクションといえば、紙芝居出身の黄金バットアメリカ出身のバットマン。いずれも、コウモリと言えば月。バットマンは映画でも月を上手く使っていた。


 月が付き物となる理由は、コウモリも世界中にいるらしいので全部かどうかまで知らないが、夜行性だからだ。子供のころの夏、だんだん暗くなってくるとコウモリが自宅前の道の上空を飛び交い始める。すでに彼ら彼女らが、超音波のソナーを有し、このため暗闇でも物にぶつからずに高速で飛べるということは子供たちも知っていた。

 しかし、超音波というものがよく分からない。多分、すごく高い音だろうということで、われらも無い知恵を絞り、発泡スチロールをこすり合わせて不快な高音をまき散らしながら、コウモリを追いかけるという戦法に出た。こうすると連中が混乱して落ちてくるという話だったが、全く成果が挙がらなかった。今にして思えば、仮に超音波が出たとしても、落ちずに逃げるだろうな。


 世田谷の展示会で見た絵の感想らしきものを述べると、まず、機嫌が良さそうなときのビリー・コウモリの瞳と、両脇が角のように尖っている髪型(実際は耳だが)の絵は、鉄腕アトムとそっくりである。それにしても、あれだけの数の原画というものを初めて見た。英語を話す外国人一家も、真剣に見入っていました。そういえば浦沢漫画は外人さんの出番が多いな。

 原画の第一印象は、「用紙が大きい」および「黒が綺麗」であった。コミックスしか見ていないので、サイズが縮小されていることを、うっかり忘れているから大きく見える。また、商品としての連載漫画は、消費材だから印刷も大ざっぱだ。あの原画の黒のつややかさは出ない。ユキジの髪なんか本当にきれいだった。


 ところで、我々はコピー&ペースト文明の住人となった。私のような事務屋にとっては、効率もよくなり書き間違いも減って、たいへん便利である。同時に締切も厳しくなり、作業量も増え、要は忙しくなった。そして、あまり頭を使わなくてもできる仕事の割合が増えた。いや、よく考えもせず自分で増やしている。

 業務に限らず、検索すると全く同じ文章が良く出てきます。例えば、「コウモリが飛行能力を獲得する進化の途上過程を示す化石は未だに発見されていない」。発見されていないのは事実だろうが、その前提として「進化の途上過程」というのんびりした時間の経過があったかどうかは別問題だろう。


 むかし傘のことをコウモリと呼んだが、あの傘の骨に似ている動物コウモリの身体部分は、指だそうだ。つまり水かきに近い。ただし、もしも段々と時間をかけて進化したとすると、中途半端な期間は空も飛べず、前肢を使って食べたり歩いたりもできない。食べ物を捕捉する前に、自分が捕捉されて食べ物になるだろう。あるとき、一気に、ああなったのだ。

 人間の二足歩行も同様で、よく子供向けの図鑑などに描かれている四足歩行から背筋が徐々に伸びていくような経過が、現実にあったとはとても思えない。あるときご先祖が赤ん坊時代を終える際、一気に立ち上がったに相違ない。何の根拠もなく主張しているが、根拠がないのはお互いさまだ。特に機能の進化なり退化は急激に進む。例えば現代、生える歯の減り方が凄いらしい。


 さて、ビリー・バットの名に由来があるとすれば、西部開拓時代の無法者、ビリー・ザ・キッドを措いて他にあるまい。ケロヨンが蛙帝国の逆襲を宣言するに至った米国ニュー・メキシコの生まれである。ステーキ屋ではない。漫画を読んでいないのでキャラクター設定に共通点があるかどうかは全く知らず、ただ単に音が似ているだけですが。

 このビリー君の墓に彫られているという”He Died As He Lived”を、「彼は彼らしく生きて死んだ」と一字一句たがわず訳しているサイトが多く、これは大間違いではないとは思うが、何だか下手な自己啓発本みたいで気色悪いと感じるのは、私の性格のせいか歳のせいか。人殺しばかりしてきたので、射殺されたということだろう。

 アメリカの博物館かどこかで、ビリー・ザ・キッド直筆の手紙を見たことがある(ただし、実物大の写真だったかもしれない)。筆記体の丁寧な筆跡であった。また別の機会に、現代のアメリカ人は、この手紙をスラスラ読めると聞いて驚いた。彼は幕末維新のころ生まれ育った人だ。そのころの日本人の手紙を、私は読める自信が全くない。


 何はともあれ、主題歌を覚えているところをみると、「黄金バット」はテレビのアニメで見ていたのだろう。あの人相で正義の味方だから、人は見かけによらない。人ならば。それに人相が無いと言った方が正確か。何が嬉しいのか、よく笑うお方であった。笑顔を拝見した覚えはないが。

 サイパンでコウモリ料理を食べたことがある。うまかった。ともあれ、テレビもない時代、太陽エネルギーで動くような正義の味方ばかりでは飽き足らなかったのか、月夜の晩に現れるスーパー・ヒーローも考えてくれたらしい。

 いま読んでいる米原万里の小説「オリガ・モリソヴナの反語法」は、私が生まれた1960年から始まる物語で、「月の女神ディアナと青いコウモリたち」というバンドが出てくる。名前を聞いただけでステージを観たくなるではないか。エンターテインメントは、こうじゃなくちゃ。




(この稿おわり)





展示会の景品

 



映画では神社が決闘の場になった。
神様ユキジ様のご加護により、双子を退治している。
(2016年5月3日撮影)















(2016年4月21日撮影)


 あなたの笑顔が見たくて ひとり
 ばかげたことも してきた

   ふきのとう 「雨降り道玄坂」 

















































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