お面という言葉を何気なく何度も使ってきたが、面という字には顔という意味もある。いずれも単なる顔面の意にとどまらず、顔役、面子、面目、面々、面汚し、したり顔、顔パス、顔が広い、あの人の一面、どの面下げて、ケンヂに顔向けできない等々、人格やプライドや表情、ときには人の存在そのものまで意味する。顔の多義性は英語の「face」も同様である。
それほどまでに顔は重要で特徴的なものであり、その顔を隠している少年は容易に人格すら認めてもらえない。この漫画ではお面のせいで、数々の不幸な事件が起きている。サダキヨは宇宙人と交信するための小道具として使い始めたのかもしれないが、そんなことばかりしているうちに自称「顔のない少年」になってしまった。
サダキヨは救われたからまだ良い。悪い者はその悪の度合いに応じて事態は深刻化し、フクベエはノッペラボウで人を驚かそうとしているうちに、自他ともに認める本物のノッペラボウに突如変身するという奇病に罹った。そのトラウマでも引きずったのか、大人になっても子供のままでお面をかぶっている。
さらに悲惨なのはカツマタ君で、公衆の面前でババにお面を剥がされて以降、とうとう最後まで本当の彼の素顔は分からずじまい。ただし、この漫画の少年時代のどこかで描かれているような気もする。彼は死んだときフクベエと同じような顔をしていたが、彼は万事フクベエのマネなのだから顔も真似たのだ。きっと。
仮の面で顔を隠した人物というと月光仮面、ナショナルキッド、仮面ライダー、タイガーマスクと並べてみたら正義の味方で良い人ばかりだが、”ともだち”は犯罪者同様、正体を隠すという目的で悪用した。そして、お面とノッペラボウは、この作品においては殆ど同義で使われていると考えて良かろう。そして間もなく物語にはお面と共に、久々にノッペラボウが出てくる。
サダキヨがコイズミに嘆いたように、顔がないということは人格がみえない、誰からも相手にしてもらえない、認めてもらえないということだ。フクベエの場合は、先に「評価されない」という被害者意識があり、開き直ってお面の教祖になったようなものだな。ニセ太陽の塔にも変なお面を取り付けた。
現時点で日本での映画興行成績のディフェンディング・チャンピオンは「千と千尋の神隠し」。その登場人物の中で、私の一番のお気に入りは今回のタイトルに借りた「カオナシ」である。あれが「人物」かどうか知らないが、妖怪変化の類であったとしても至って人間的なお方である。
普通に考えればカオナシとは「顔無し」であろう。アニメの絵では顔のようなものが付いているが、実際は巨大な口が下のほうにあるのでお面なのだろうな、多分。西洋風のマスクでもなければ、東洋的な能面のようなものでもない。熱帯アフリカやニューギニアの人たちが祭祀などに使うお面のデザインに近い。呪術的である。
お気に入りと言っておきながら、一体あれが何なのか見当もつかない。最初のうちは寂しそうである。カオナシが橋の上に立っていた姿を覚えているが、柳の木の下のほうが似合いそうな風情であった。しかも、「う」とか「あ」とか大平首相みたいで、なかなか言葉が出てこない。
途中で豹変し、マルオ親子のごとく無闇に大食いするようになるのだが、なぜかヒロインの娘に弱くて悪役としての迫力に欠ける。「20世紀少年」に出てくる悪役も、そろって悪としては中途半端であった。カオナシ同様、人間的に描かれている。
私は性善説とか性悪説といった単純な議論が嫌いで、人間だれしもケンヂやサダキヨのように、悪と善を両方とも抱えて生きていると信じて疑わない。ジキル博士とハイド氏は同一人物である。ケンヂは長髪の悪役に対し、悪になるのは大変で、正義の味方になるほうが簡単だと言った。
悪になるためには、ひたすら悪を続けなければならず、弱みを見せると私のような者にまで中途半端だと言われてしまうから楽ではないのだ。他方で正義の味方になるにあたっては、ひたすら善人であり続ける必要はなく、悪を倒すだけで認可されるのだから確かに簡単といえば簡単だ。例のゴジラもかつては悪役だったが、人類側に移籍したので過去は不問に付された。
正義の味方に祭り上げられたケンヂは聴衆に向かって、また、カンナに対して、俺はみんなが(お前が)思っているような人間じゃないと言わざるを得なかった。悪の大魔王と言われたままで決着がついていなかったのだから。しかし言葉足らずにも程があり、カンナをいたく傷つけた。
加えて悪を倒したのはケンヂかというと、そうでもない。カツマタ君は死に方までフクベエのマネをしたらしい。いずれもかつての仲間の裏切りに遭って倒れた。場所までそっくりで小学校。そして目撃者が秘密基地のメンバーと漫画家だったという組み合わせまで同じ。
花も風も街も現実とそっくり同じにみえるヴァーチャル・アトラクションの中、ようやく決着の相手を見つけて、ケンヂは「おまえのこと探してたんだ。」と穏やかに声をかけた。だがナショナルキッドの返事がない。そこでケンヂは次から次へと四つも質問を並べている。
「おまえサダキヨか」「それとも、もう一人のほうの”ともだち”か」「”反陽子ばくだん”って知っているか」「どうやったら止められるんだ」。どれも答えてもらえない。しかし相手は最後の虫のよい質問が癪に障ったみたいで、「ククク」という嫌な”ともだち”笑いをしてみせた。
そして「まだ早いよ」と少年。「え?」とケンヂ。「ここのルールがわかってない。」と偉そうに少年。ついていけなくて「何?」とケンヂ。この時点で充分、読者には不気味だが、ケンヂは不気味どころではない経験をすることになる。なお、横から見たカオナシの首から上の形は、太陽の塔とよく似ている。アンメルツ的。
ともあれ以上のような質問の仕方からして、すにでケンヂは少年時代に二人のナショナルキッドがいたことを思い出しているのだろう。片方はズルはだめだと諭してくれたサダキヨで、もう片方をケンヂ少年はジジババの店先で2回見ている。二人が別人であることは第22集で一緒に円盤の下にいたのだからケンヂにも明らかである。では、これはどっちだ。
(この稿おわり)
この看板は古そうです。「珈琲」ねえ...。 (2013年1月19日撮影)
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんな同じ
「いつも何度でも」 木村弓