おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

銀河鉄道  (第999回)

 999回目とくれば、スリーナインだ。あいにくコミックスは実家に置きっぱなしとあって、これを機に何年かぶりで宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んだ。毎回、読後感が異なるのだが、今回は正直いって、読むんじゃなかったと思った。そういう訳で、本稿の感想文も重たい。

 このため、やや大げさですが、宮沢賢治の健全なる愛読者のみなさまや、「銀河鉄道の夜」をファンタジックな童話として大切になさりたい方は、拙文などお読みにならないでください。でも読んでみたら、やっぱり不愉快だったという方は、このおっさん(私です)は予知夢が出てくる漫画ばかり読んだせいか、頭が不調なのだと諦めてください。

 
 遠回しに、最初は映画の話。しばらく前に小欄で取り上げた映画「MATRIX」を封切りで観て以来初めて、DVDを借りた。感想は、CGもここまで来たら、もう終わりだなというもの。古来、特撮はニセモノを本物らしく見せるために心血を注いできた。三船が仲代の頸動脈を居合い抜きで叩き斬るようなときに使う。でも、弾丸が止まってしまったんでは映像化する必要はない。手塚治虫が数十年前にやっている。

 もう一つ。十年ぐらい前に映画館で「タイタニック」を観たときも不快であった。デカプリオさんも目出度く受賞されたので、遠慮なく申し上げると、あんなに大勢の人が死んでいく場面を延々とヴァーチャル・リアリティで見せられても、驚きも楽しみもできない。これまで散々、SFや西部劇やマフィア物や戦争映画で、たくさんの人死にを観て来たが、なぜかタイタニックは後味が悪かった。


 さて小欄では過去、宮沢賢治(ケンジさんだ)の作品が、子供のころから読みづらくて、その理由が自分でも良く分からないと書いた覚えがある。今回、読んでみて、少なくともその一因は自分なりに明らかになりました。「よだかの星」、「グスコードブリの伝記」、「やまなし」、「注文の多い料理店」、そして「永訣の朝」。彼の主要作には、いつも死の影が差している。

 以下、「銀河鉄道の夜」の細部に触れます。この童話も、友人カンパネルラの死という重いテーマを扱っている。それに加えて、氷山にぶつかって船が沈み亡くなったという青年と子供二人が登場する。研究者や読者の中には、これがタイタニックの乗客だと断定している人が少なくないが、間違っている。


 タイタニック号の沈没事故は、宮沢賢治が十代半ばに起きているので、「銀河鉄道の夜」のみならず、彼の諸作品に影響があるのは当然だろうし、特にこの物語がタイタニックの沈没を念頭に置いて書かれたことや、読者がこの事故をモデルと思うことを前提としていることも否定しない。

 だが、登場人物はタイタニックの乗客ではない。まず、作者は数字を用いて、明確に混同を避けている。タイタニック号は出航5日目に氷山と接触し、6日目に沈没した。他方、銀河鉄道に乗り込んできた遭難者の青年は、「十二日目、昨日か今日のあたり」に船が沈み始めたと語っている。


 この航海日数の話よりも、私が重要だと思うのは、これを聞いた主人公ジョバンニの脳裏に、「ああ、その海はパシフィックというのではなかったろうか。」という思いが湧いていることだ。太平洋である。だがタイタニックは、大西洋に沈んだのだ。それに、パシフィックという言葉は別の話題において、もう一度、繰り返し登場する。何か訳がありそうではありませんか。

 物語の冒頭は、ジョバンニと彼の母親との会話で始まる。ジョバンニは、お父さんがもうすぐ帰って来る気がすると語る。母は夫が監獄に入っていることを知っており、約束の「ラッコの上着」も、いつ持って帰るか分からないと悲観的な返事をしている。そのあとに、ジョバンニとカンパネルラの父親同士が「小さいときからのお友達」だったという話題が出てくる。


 今度は物語の終盤。ジョバンニは、友の死を知らされた後で、カンパネルラの父と会って話を交わす。行方不明のままの息子について、父は「もう駄目です」と語り、ジョバンニにお礼を述べたあとで、少年の父がもう帰宅したかと尋ねている。ジョバンニは「いいえ」と答えた。そのため彼は印刷工として、朝夕働き続けているのだ。

 カンパネルラの父は、「どうしたのかなあ。ぼくには一昨日、大へん元気な便りがあったんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだな。ジョバンニさん。あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」と言い、ジョバンニは父帰るの朗報を母に伝えるべく家路を急ぐ。友が去り、父が戻る。これで救われる。私はそう読んできた。


 ところで、今回は途中でジョバンニの心理描写に引っかかった。先ほどのパシフィックのくだりである。「ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうに気の毒でそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう。」

 ジョバンニの父が監獄に入っているのは、こんにち激減してワシントン条約の保護動物になっているラッコの密漁で捕まったと解釈されているらしい。それで矛盾は無いと思う。賛成。私は北カリフォルニアの沿岸で、一度だけこのラッコの群れを観たことがある。大半は仰向けになって浮かんでいた。このラッコは、太平洋の北部沿岸にしかいない。北の果ての冷たい海に棲む。でも大西洋にはいない。


 ジョバンニは父がいるはずの海域で起きた沈没の話を聞いて塞ぎ込んでしまったうえに、さらに三人の遭難者は、ほんとうの幸福、命、神などに関わる難題を幾つも突き付けてくる。隣のカンパネルラは、ずっと元気が無く、とうとう最後は音もなく消え去ってしまう。夢はここで終わる。ただし、その前に夢はジョバンニに、心構えをさせているかのようだ。

 「僕たちしっかりやろうねえ」、「きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」などと、ジョバンニは、カンパネルラの魂に誓う。そのためだろう、起きてから知った友の悲報に彼は耐えたようだ。でも、それで終わりだろうか?


 父の便りがカンパネルラの家にだけ届いているのは、単に郵便事情のせいかもしれない。でも、何だか嫌な予感がする。さらに、もう着いていてもおかしくない父を乗せた船が遅れている。そしてジョバンニの直観によれば、昨日か今日か、太平洋で氷山に衝突した船が沈んでいるのだ。

 カンパネルラは、ジョバンニの夢の中で、別れを告げに出て来たのだろう。では、あの三人は何のために出て来たのだ? 宮沢賢治は、生前にこの作品を世に出さず、その死後に出版されている。ずいぶんと推敲を重ねたことが熱心な研究の成果として判明している。


 彼の作品は童話であっても大人の鑑賞にたえる。言葉を換えれば、私が小学校低学年ですでに「風の又三郎」を読んでいたように、童話であるが故に子供に推薦され、子供でも読める。それが一因だと思うが、本作に限らず、宮沢賢治は言葉を慎重に選び、頻繁に文章を変えている。

 おかげで今ごろになって、私はこの重量感に耐えかねており、とにかく早くこの記事を書いたうえで、できればどなたかに、反論していただいて納得したいと思った。先ほど頼みの綱、吉本隆明の書評を読んだが、ジョバンニの父の所在は明示されていないという趣旨のことしか書かれていなかった。何にせよ、ジョバンニは生きていくだろう。それだけが頼りだ。




(この稿おわり)







2016年3月25日、西日暮里にて撮影。









 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

   「雨ニモマケズ」より  宮沢賢治


















































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