おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

Boys Don't Cry  (第1000回)

 今回タイトルの映画の感想文は、映画「20世紀少年」にマライアさんとブリトニーさんが出てくるときまで待とうと考えていたのだが、せっかく編年体にはこだわらないことにしたのだから、映画の印象が新鮮であるうちに書いておくことにする。千回記念。「ボーイズ・ドント・クライ」は、1999年公開のアメリカ映画で、実話を基にしているらしい。

 そのころ映画館がなかった国で働いていたこともあり、見逃していたのだが、このほどようやくDVDを借りたきっかけは二つ。まず、「ミリオンダラー・ベイビー」を何度か取り上げたので、ヒロインのヒラリー・スワンク出世作も観ようと思ったこと。もう一つ、人事関係の仕事をしているのだが、近ごろ頻繁に、「GLBT」という略語を耳にするようになったことだ。LGBTとも言う。


 GLBTは余り安直に扱わない方がよいと思うが、これも時代の流れ。仕事では避けて通れないし、戸籍その他で社会問題にもなっている。かつては主に差別や嘲笑の意味合いで使われていた言葉の集まりである。かつて、だけではないと思うが...。以下、間違いがあったら、ぜひご指摘願います。

 最初の二つはゲイとレズビアンで、私の子供のころからホモまたはおかま及びレズと普通に使われていて、新卒で銀行に就職して間もなく「この業界はホモが多いのよ」と先輩女性に教えてもらったのを覚えている。その真偽の程は明らかではないが、ゲイは二人の実例を知っている。三つ目の「B」はバイセクシュアルで、俗語では「両刀使い」と呼んでいたものだ。


 これらの言葉は、個人的な印象としては、それほど強烈な差別用語ではなかったように思うのだが、きっと受け止め方は人それぞれだ。特に言われる方にとっては複雑なのだろう。特に知り合い同士だと、なおさらだ。

 自然界でも普通に行われているらしいし、信長の時代にも、ソクラテスの時代にもあった。生物が動物と植物の二つにだけ完全に分けられる訳ではないように、性も異性間だけというものではないのだ。ただし、表立って自分はそうだと語る人は、確かに日本では少なかったはずだ。


 マライアさんとブリトニーさんは、ニューハーフという呼称で物語に登場する。いつごろできた言葉なのか知らないが、先述のおかまとか、おねえとかいうのと同じような意味合いだと思いながら漫画を読んできた。この両名もそうだが、おそらく水商売の用語だろう。

 私見ながらGLBの三つは、性愛(性別ではないほうのsex)との関わりが強い。博愛のラブとは違う。かつて、バンコクに出張したとき名物「カリプソ」に連れて行ってもらったことがある。現地の日本人たちが「おかまバー」と呼んでいたのを覚えている。かくのごとく開き直れる人たちは、まだしも楽なのだろう。


 映画「ボーイズ・ドント・クライ」は、四つ目の「T」、トランスジェンダーをテーマにしている。私は「T」との厳密な違いを書くことができないが、主人公は、ここ5年か10年かのうちに知名度が急に上がった観がある「性同一性障害」を有する。

 性同一性障害は国際的な医学用語で、私の手元に和訳の本がある国連WHO発行の「ICD-10」(精神および行動の障害)に、この名で掲載されている。「F64 Gender Identity Disorders」の日本語訳だから、区切り方は、性・同一性・障害。これを略してGID

 
 かつて尾道を舞台にした「転校生」という映画があり、男子と女子の心が入れ替わってしまうという物語であったが、現実のGIDは、私のように平凡な男の肉体と容貌を持ち、伝統的な男の子の教育を受けて育った者には、想像もつかない大変な人生であるらしい。

 性愛とは関わりのないトイレや更衣室などの日常的な場所が、GIDの人たちには重大な決意なり忍耐なりを迫られるところになってしまう。まして、この映画のようなアメリカの保守的な田舎(映画の舞台はテキサス)の当時となると、隠して暮らすしかなかったのだろう。ヒラリー・スワンクGIDの「D」(Disorder, 故障)に替えて、「クライシス」と表現している。切実だ。


 展開も結末も深刻そのもの。ここでは筋の詳細には触れないので、映画をご覧ください。おそらく、この作品は性同一性障害の名前と病理が世間に広まるにあたって大きな役割を果たしたと思うので、ぜひ観ていただきたいが、心身ともに調子がよい日を選び、気合いを入れてからにしてください。

 音楽は良い。いかにもアメリカ南部らしいロックやカントリーやブルースが鳴り続ける。冒頭のスケートリンクだったか、あのシーンで使われていたのは、ザ・カーズの”Just What I Needed”という私の好きな単純明快なロック・ナンバーで、シチュエーションとモチーフにあった題名でもある。


 エンド・ロールで流れていた歌は、カントリーのヒット曲"The Bluest Eyes in Texas"のカバーである。なお、劇中歌としても使われているため、クレジットにおける歌手の名は、歌っていた女優の芸名になっている。主人公の恋人になった娘が、友人と「カラオキ」で歌っていたスロー・バラードだ。

 ちなみに、本稿の最後に引用するザ・キュア、”The Cure”は、イギリスのロック・バンド。初めてその名を聞いたとき、治療とは妙な名前だと思ったものだが、魂の救済という意味もあるらしい。そっちの語義かな。


 さて、この映画の題名は、これまで「少年よ、泣くな」という意味だと思い込んでいた。クラーク博士の影響かもしれん。だが、「Boys」の後にはカンマがないので、これは「少年たちは泣かない」という意味が本来だと思う。

 日本に限らないと思うが、きっと多くの国では(日本では少し昔までは)、「男の子は人前では泣いてはいけない」という厳しい躾けを受けてきたという話題には以前、触れました。主人公もきっとそうだったのだ。そして同じような人たちが大勢いるに違いない。男だって辛い。まして、性別の自覚が戸籍の反対側となると、ジェンダー(社会的性差)の大きな環境にいたら大変だ。


 私の周囲では、これまで一人だけ、知り合ったころは男で、今は女として生きている人がいる。彼とは中学生のとき知り合い、断続的に十代から学生時代にわたり、ちょっとした友人というくらいの付き合いをしていたのだが、今や氏名も服装も女性である。彼女には会っていないが、ネットで確認できる。共通の知人たちも驚いていた。

 彼女の男性時代には、京都の先斗町で飲み会をやったり、一度だけだが、彼の学生寮で三四人で雑魚寝をしたこともある。思い起こせば、怒ったところを見たことがない。ゲイバーで働く人たちは、とても優しいとよく聞く。きっと、いろんな目に見えない努力をしながらの処世なのだろうなと感じ入ってしまう。

 余計な心配で終わればよいのだが、レプラの歴史と現状などをみても、差別というものは、そう簡単に消滅するものではない。いま時流に乗って、「カミング・アウト」をした人たちの記事などを時折、目にするようになったが、余ほどの事情が無い限り、あまり慌てず騒がず、じっくりと理解を得ていったほうが得策だと思うのだが、いかが。





(この稿おわり)






弥生の空は見渡す限り。
(2016年3月25日撮影)











 Hiding the tears in my eyes
 Beause boys don't cry

    ”Boys Don't Cry”   The Cure








































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