いったん映画から漫画に戻る。ご近所というのは、ケンヂたちの商店街とその周辺のことです。かつて一とおり漫画の感想文を書き終えた時点で、分からないことは後回しにしたまま、その後も放置しているので、これでも気になっているのだ。このため、ときどきコミックスを取り出しては、寸暇を惜しんで読んでいるのだが進展がない。
これではあまりに芸が無いので、別に大発見は無いが、少しは気付いたことでも忘れぬうちに書いておこう。下巻でサダキヨ少年の引越しを見送ったあと、大人のケンヂと子供のケンヂは、まだ、やりのこしたことが二つあるという点で意見の一致をみる。本当は大人のほうの責任なのだが、年功序列で、おまえがやれということになった。ヴァーチャルの子供はしぶしぶ頷いている。
後に一所懸命あやまったと評価はしているが、大人のほうは見学していただけで、すなわち宿題二件とはババへの謝罪と、ナショナルキッドへの謝罪であった。ババのほうは分かりやすいが、お面の相手に対しケンヂ少年は、「万引きしたのは僕です」という謝り方をしている。大人も暗黙の了解を示している。
つまり、ケンヂ側としては、「この時点のカツマタ君は、ケンヂが万引き犯だったことを知らない」と解釈しているということだ。それなのに、このあとカツマタ君へのイジメが続き、おそらくジジババにも立ち寄れなくなって、カツマタ君に多大なご迷惑をおかけしたことを深くおわび申し上げるという趣旨であろう。これをサボったので、延々と子供の遊びに付き合わされることになった。
ヴァーチャルのカツマタ君は、これを黙って聞いているだけだが、このあとの中学校の屋上のシーンも経て、無事、ケンヂを実世界に戻しているところをみると、生前にアトラクションに仕込んでおいたと思われるケンヂが来た際の遊びは、辻褄が合って納得したのだろう。でも、現実のカツマタ君のなれの果てである”ともだち”は、ケンヂが悪の大魔王であることを知っていた。
本人にもそう語っているだけではなく、高須にも喋っている。高須はユキジに、ケンヂには正義の証を持つ資格はないと言っていた。ウルティモマンのバッヂのことだろう。どうやって、カツマタ君が知ったのかが不明であった。今も不明です。だが検討はしてみたので、往生際が悪いが経過ぐらいは書きたい。
だれかが伝えたとしたら、誰か。ケンヂが逃げていく場面は、マルオしか見ていない様子である。第22集から上巻にかけてのケンヂとカツマタ君のやりとりは、居合わせたマルオと氏木氏が傍聴しているのだが、マルオは何のことやら分からないという風情である。少なくとも忘れている。それに彼は、ケンヂの前に仮面の少年が去りゆく姿は見ておるまい。つまり仮に言いつけたくても相手を知らないし、マルオはそういうことをする人でもあるまい。
この目撃者と通報者は、サダキヨではないかと以前、書いた。サダキヨは、公園でキリコと話をしていたときも、お面を取り上げられたカツマタ君が道路に突っ伏しているときも、理由は分からないが離れた場所から彼を見ている。この二人以外に、カツマタ君とサダキヨの区別がついていたのは、この日ではフクベエと山根だが、彼らがバッヂ事件のことを知っていた様子もうかがえない。
それに私はサダキヨが、最後にケンヂにかけた言葉、「ごめんね」のわけが分からず、気になったままなのだ。でも、やっぱりサダキヨは、ズルはダメだという道徳観をケンヂに示しており、ヴァーチャルとはいえ、ケンヂに見送ってもらったときの笑顔は万引き犯に対するものではない。こうして、迷路に入り込んだままだ。
カツマタ君本人は、直前に背中を見せて走り去っているので、ケンヂのその後の行動を知っているはずはなかろう。これ以降、ケンヂとしては万引犯の汚名をカツマタ君が背負ってしまった以上、あのバッヂを人に見せる訳にはいかなかったはずである。
もしも、誰かに見せたとしたら時間的には、ババに叱られているカツマタ君を遠目に見る前しかない。しかし、全編を通じて、ケンヂとカツマタ君以外は、誰も真相を知らないはずだ。ずっとあとで聞いた高須とユキジを除けば。
唯一の可能性。以下ほとんど妄想に近いが、これまで無数に似たようなこじつけをしてきているので今さら恥ずかしくもない。カツマタ君とケンヂがジジババの店頭から走り去った方向は同じである。ふたりの影が同じ方向に延びているからだ。いずれもジジババの店から出て、前の道を左に曲がっている。
その方向に何があるかと言うと、二人が通っていた小学校がある。これは第22集のケンヂとマルオと氏木氏の言動から分かる。ケンヂは”ともだち”の誘導を受けたトラックが、商店街を復元した場所に着いたときから、どこに行くべきかを知っており、丸尾文具店もジジババの駄菓子屋も、見向きもしない。そのままジジババの左方面に向かい、小学校に至っている。
マルオは「学校」とだけ言っているが、校門のレリーフには僅かに小学校の文字が読めるし、建て替える前の第三小学校の校舎を1997年にチョーさんが見ているのだが、両者の外見はそっくり同じである。ちなみに、第四中学校は第1集の冒頭に出てくるが、建築物の外見が異なる。”ともだち”は、会見場所に小学校を選び、ケンヂはそれを事前に察知している。少年時代、それぞれジジババの店からバッヂを黙って持ち出し、出会ったとしたら小学校だったのではなかろうか...。
なお、ケンヂ少年は、サダキヨとカツマタ君の区別がついていたはずである。そうでなければ、情報源がヴァーチャルではあるが、サダキヨが引っ越した後で、ナショナルキッドに謝罪に出向くはずがない。それに同伴した大人のケンヂも、もう思い出しているはずだ。お面をかぶって、あそびましょーと言っていたのが誰だったかを。サダキヨではなかったのだ。
この小学校の校庭は、別件のちょっとした事件の現場にもなっている。ベビーカーに乗った赤ん坊時代のカンナが誘拐された事件である。おばあちゃんは、近所の知り合いとのお喋りで夢中になっていたようで、しばしベビーカーから目を離した。その隙に、なぜかその場にいたフクベエに連れ去られている。
彼の背景に描かれている倉庫は、チョーさんが確認し、マルオも見ている。建て替えられて倉庫になっているが、かつてフクベエの実家だった。彼は我が娘、見たさに実家のそばまで来たのだろうか。折よくカンナは放置されていた。しかし、2015年のカンナの記憶によると、彼女は連れ去られた後で、この小学校の校舎に置き去りにされて、おばあちゃんに発見されている。
せっかくのお迎えのチャンスに、なぜフクベエがカンナを置き去りにしたのかは書かれていないが、ごく普通に考えれば直後におばあちゃんが気付き、声をあげて追いかけたのだろう。おばあちゃんは、少なくとも1950年代からここに住んでいる。その人に商店街で「誘拐犯だ」と騒がれたら、獲物を置いてスタコラ逃げるしかあるまい。
フクベエの家だった倉庫と、第三小学校が比較的、近くだったことは、チョーさんに小学校の位置を教えているポカポカ弁当のおばちゃんの「そこ」という仕草からして明らかである。ちなみに、敷島教授の家もすくそばだったことを、チョーさんがヤマさんに語っている。この町内が地球を滅ぼしかけたのだ。
最後に、バッヂ万引き事件の時期について。1970年の夏休みの終わりごろかと見当をつけた。みんなは5年生である。二学期に入れば、サダキヨはもういない。暑い季節であることも間違いはない。だが、8月下旬あたりというのは正しいだろうか。
この年の秋、イチョウの落ち葉が散る季節、露天商万丈目の店先で、フクベエに会った山根は、ひさしぶり、万博会場で会えると思ったのに、と一番痛いところを突いてきた。ということは、万博組だったとオッチョが記憶している山根は、夏休み終盤に大阪から戻って以降、フクベエには会っていなかったということだ。つまり、山根が万博に行く前に「お前は死にました」が起きたはずである。
そのころなら、万博に行っていることにしたフクベエも、大手を振って街を歩ける。サダキヨは、「今度、僕、転校するんだ」と言っているが、その発言が夏休みに入る前後であっても、不自然ではなかろう。公園のキリコが制服を着ているから、夏休みの前なのかもしれない。それに、基地の仲間は、秘密基地に向かっている。万博見物の計画で盛り上がっていたころなのだ。
この年の8月下旬は、首吊り坂の肝だめしが行われた時である。ケンヂはこの夏、万引きのうしろめたさ、万博に行けなかった悔しさ、お母ちゃんの買い食い禁止令、自転車も壊れて、泣きっ面に蜂の日々であった。起死回生の冒険に選ばれたのが、お化け屋敷だったということか。
ボブ・ディラン自伝の第4章の題名「オー・マーシー」は、彼のアルバムの名前でもある。この作品のプロデューサーは、U2のボノが紹介してくれたそうで、ダニエル・ラノワという辣腕の音楽家だ。ラノワさんはそのフランス風の名前が示すようにカナダ東部出身の人で、ケベック州ハルの生まれ。カナダのハルといえば、神田ハルだろう。
(この稿おわり)
今年の東京は桜の開花が早かったです。
(2016年3月25日撮影)
夏の日の夕方 学校から帰ると僕たちは
みんな真っ白なシャツを着て
色の剥げた貨物船のような倉庫のある細い道に集まり
それから川の堤に駆け登るんだ みんなで影を連れてね
夕日が太い煙突に吸い込まれるまで 影踏みをして遊ぶんだ
影を踏もうとすると 影は驚いた魚のように逃げたっけ
「桜三月散歩道」 井上陽水
.