おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

星の王子さまが幸せならば  (935回)

 最後にもう一度、終幕の屋上のことを考えてみたい。その前に、第22集から「21世紀少年」にかけて描かれているバッヂ騒動の顛末をもういっぺん振り返る。最初にお面の少年が当たり券を持ってバッヂを持ち出し、これを少し陰のある表情で見ていたケンヂが、はずれ券なのにバッヂを手にして去る。「盗んだバイクで走り出す 行き先も分からぬまま 暗い夜の帳りの中へ」。尾崎は27歳になれなかった。

 ところで、どちらも本人以外は万引かどうか分かるはずがない。ケンヂの場合、その走り去る背中を自転車のマルオが見つけているのだが、はっきり言えるのは、ただ単にババの店から飛び出してきただけだ。普通に買い物をした後で、急いでどこかへ行くだけかもしれないではないか。
 

 だから、全巻読んでもマルオがケンヂを万引き犯かという疑いの目で見ている様子は全くない。これはナショナルキッドの後ろ姿についても同じことが言えるのである。余ほど近くで見ていなければ、何があったか分からないはずなのに、第22集の夜の小学校における”ともだち”とケンヂは、お互いにお互いが何をしたか知っており、自分が知っていることを相手も知っていることを無言の前提として話し合っている。

 したがって、聞いているマルオや氏木氏は、訳が分からず「?」のままである。この事情(二人だけが知っているということ)は、バッヂを持ち去った出来事だけではなく、ババにお面を剥がされた少年をケンヂが無視して去ったという出来事についても同様だと思う。ただし違いもあって、当時のケンヂは路上で何が起きたかを一部は知っているが、ナショナルキッドは道に突っ伏しているのだからケンヂを見ているはずがない。


 ということで誰かが後日、カツマタ君に一部始終を話したとしか結論付けることができない。もしかしたらヴァーチャル・アトラクションに再現されているかもしれないが(映画ではそうだった)、そういうのも含めて第三者情報が無ければ、こちらのほうの”ともだち”は、ここまで怒る程の認識を得ることはできない。誰が伝えたかは前に想像したが、私の見落としがない限り正解は出ないよ。だが、「何時か」という問いならどうか。

 具体的にいうと、下巻最後の屋上のシーンは、もしも現実にあったとおりのことだとしたら、すでにケンヂの「悪行」を中学生のナショナルキッドが知り尽くしていたなら、「ねえねえ」とか「僕と”ともだち”になってくれる?」というようなソフトな態度は取らないだろう。読者の目から見たら、当然そう感じる。小欄では前にこれを何とか説明しようとしたが、上手くいっていない。


 ここでは妄想が膨らみ過ぎないように、常識的に考えるほかない。この屋上の後で、ケンヂが彼にしたことを、誰かが吹き込んだとすればどうか。彼が身投げしようとまで世の中に悲観したのは、万引き犯人とみなされてイジメられたり孤独に沈んだりという状況だけが続いても充分あり得るだろう(つまりケンヂの所業を知らぬままでも、ということです)。

 中学生ケンヂのほうはどうか。屋上では相手に敵意が無いのだから、小学校のときのバッヂ事件そのものは覚えていたとしても、それが相手にとって、それほど深刻ではなかったのだと思っていたことだろう。さもなくば、この屋上のシーンのように、寝転がったまま音楽を薦めたりはしまい。お行儀も愛想も悪いが、すでに彼はロックの影響か、そういう態度の男に育っており、コンビニの店長は職務適性がなかったのだ。


 そもそもケンヂは相手が投身しようとまで深刻な心境に追い詰められていることを、下巻の最後の数ページ目まで知らなかったから、その場面であんなに驚いているのだ。彼にとっては長い間、ババの店先では多分、俺が万引きしたせいで、もしかしたら奴が代りに捕まったかもしれない、悪いことした、自分はラッキーだったかという程度で済んでいたのかもしれない。

 でも濡れ衣を着せられた当人にとって、そんな簡単に済む話ではなかったことが、どこかの段階でケンヂにも分かったらしい。だから三日三晩、転がって泣くほどの衝撃を受けたのだろう。それは彼の証言によれば、万博の開催およびウィルスのテロという2015年の報道を受けてのものだった。フクベエの時代とは違う何かに気づいたのでなければ、こういう展開にはなり辛いと思う。

 同じタイミングで、カツマタ君の名を思い出したかもしれない。小学校・中学校と同じ学年で近所なのだ。一緒に記憶が蘇ってもおかしくはない。それにケンヂは、サダキヨやフクベエのこともけっこう覚えていたものだ。そしてどうやら、相手の名はそれで間違いなしという確信を得たのは、屋上での二人の中学生を見ていて思い出すものもあったのだろう。


 謎解きは疲れるねえ。ミステリが苦手なはずだ。さて、お面である。友達マークの目玉覆面、初登場は第14集である。このあとで過去の話としてこのマスクも何度か出てくるが、コミックスのページ順では、第14集で万丈目が”ともだち”の遺体に対面するときに、フクベエの亡骸(たぶん)がかぶされていたもので、むかし通夜の席で仏さんの顔にかけられていた白い布を彷彿させる。

 これは忍者ハットリ君やナショナルキッドのようなセルロイドの仮面ではない。おそらく布製であり、プロレスで言えば覆面レスラーが使うマスクで、ちょっと変身してみるのに使うものではなく、他者に素顔を一切、見せないという強い意志を感じる。そして、白い布に目玉マークとくれば、もう決まり。これは俺達の旗だ。


 神様に原っぱを追い出されることが決まり、ケンヂが言いだしっぺになって行われた解散式は、九人の戦士のほかにも二人はいたはずだと前に書いた。カツマタ君はその場にいた可能性があり、その確率が高いように思う。あの缶がここに埋まっていることを知らなければ、下巻のバーチャル・アトラクションで掘り出されたカンカラに、彼の手によるニセ・リモコンや「しんよげんの書」の最終ページが納まっているはずがない。

 フクベエが忍者ハットリ君のお面を使い、名字と絡めて「誰か気付いてよ」と自己主張していたかのように、カツマタ君は俺達の旗で、「あそびましょー」と言い続けてきたのだ。きっと。だから、お面を取ったら遊びが終わってしまうのだ。ずっと、素顔が知られることが問題だと思っていたが、考えて見ればそれはすでに高須にも敷島娘にもユキジにもオッチョにも見せている。同じ顔で当たり前だから、ケンヂは驚かなかったのだ(なぜマルオが知らなくて、ケンヂが知っていたかまでは分かりません)。

 
 この”ともだち”の最期は、事故の状況こそ悲惨だが、どうやら本人は穏やかな顔で滅びて行った様子である。得意の左手は円盤の部品に潰されて動かず、右手でリクエストした曲が後半で攻撃的になる前に意識が薄れた。それにしても、この自分の人生とは余りに違うから想像が及ばないが、いくら好き勝手ができる独裁者であろうと、こういう人生が楽しいはずがないと思う。

 神様とオッチョは、子供の遊びが終わるのは大人になるときだと結論を出している。”ともだち”も、ようやく思春期が終わったらしい。その後の更なる過酷さに、大抵の人は耐えていく。だが「永遠の少年」は、小さな挫折を繰り返しながら暗いバイタリティーを保ち続け、それが枯渇した途端、一気に若者から老人へと移行する。

 カツマタ君の話題も、とりあえず尽きた。せっかく、良い音楽を教えてもらったのに、彼は極めて退嬰な精神の持ち主で、自分が傷つく前の東京の街まで再現して20世紀に閉じこもった。そういう自分はどうだろう。当時の俺達は今の俺達を見て、何と言うだろうか。





(この稿おわり)






この季節、谷中の墓地は雑草が華やかです。
(2015年5月2日撮影)






  


 これが自由と言うものかしら 自由になるとさみしいのかい
 やっと自由になれたからって 涙が出たんじゃ困るのさ
 やっぱり僕は人にもまれて みんなの中で生きるのさ

        よしだたくろう 「どうしてこんなに悲しいんだろう」












 何だろうと 出来上がった物を 店で買って済ませる
 でも 友達は店には売ってはいない だから皆もう友達がいない

             「星の王子さま」 サン・テグジュペリ









































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