おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

5年前  (第994回)

 このブログは、5年前の2011年6月に書き始めた。この時期からとなった理由は二つある。いずれも、きっかけはこの年の3月の出来事。一つは、新潟の温泉を再訪し、まだ雪が残っていたので昼間は近くを歩く程度という休養の日々を過ごしていた折、宿の本棚に「20世紀少年」のコミックスを見つけて何気なく読んだのが発端。もう一つが東日本大震災でした。

 この二つが重なって起き、当時の私は初めて自分の過去をきちんと振り返ってみたいと感じたようだ。ここで他人事みたいな表現しかできないのは、はっきりそう考えた記憶が無いからだが、こうして5年間も昔話ばかりしているのだから、少なくとも結果的には、私は未来ではなく過去を語り続けている。齢五十を過ぎて年齢的なものもあるが、震災と漫画の影響は大きかった。


 それまでは若いつもりでいたし、二十代から四十代は多忙な日々が続き、落ち着いて過去を見つめるという余裕も気分も生じなかった。でも今は、はっきり言える。未来より過去の方が大事だ。これは心理学や心理療法の世界でも、意見が分かれる。周知のようにフロイトとその学派は過去(正確には無意識のものも含む記憶というべきか)を重視する。

 他方で、私が最初に勉強したカール・ロジャーズの理論等は、「いま、ここ」が大切であって、私のように過去に執心する者には、苦手な考え方です。明るい未来を信じて生きようなんてスローガンの連呼を聞くと、私にはカルトの宣伝としか思えない。でも今ここの日本は、そんな掛け声ばかりだ。

 もう5年も経つのか。今年もこの日々が来た。東京大空襲の10日、大震災発生の11日。風化を食い止めるのは、政府や報道の責任ではない。一人一人の心の持ちようとしか言うほかない。日本中・世界中の悲劇について毎日まじめに考えていたら心身が持たないだろうが、では私たちは何のために暦を持つか。ビジネスのためにしか使わないか。


 どんなに頑張ったって、未来はその人その人の過去の延長線上にしかない。しかも、その未来が文字どおり「未だ来ていない」だけで、そのうち必ず来るとは限らない。自分も頭でそう思っていただけだったが、震災はその厳然たる証拠を突きつけて来た。

 何だか柄にもなく硬い話になった。心理学も捨てたものではない。先日も先輩から良い話を聞いた。子供の頃どういうふうに遊んだか、何をしたら面白かったかを思い出してみると、それは各人の仕事の適性との関連性が高いという信念の持ち主だ。遊んできたように働けということです。「20世紀少年」も常に過去を見据えた展開になっている。いつだったか取り上げたスティーブ・ジョブスのスピーチも、昔の話ばかりだった。


 さらに、その先輩は精神的な不調を訴える人に対して、気分転換になるから子供の頃どんなふうに遊んでいたかを思い出して、気力があるときに書き出して提出してもらうこともある由。併せて、この作業をした感想も書いてもらっているそうだが、みんな楽しかったと口をそろえていうそうで、こういう機会を得たことに感謝するとまで伝えてくる人もいるという。

 道理でこんな駄文も長続きするわけだ。そして楽しく振り返る材料か、または寿命が尽きるまで続くだろう。されど今日この日、3月11日は懐かしい思い出に浸っているわけにもいかない。先般、保存データの整理をしている最中に、2011年3月11日の夜、その日に経験した出来事を書いたメモがあったので読み返してみた。案外というか、やっぱりというか、私の記憶もいい加減なものだな。

 
 記憶通りだったのは、当日、ちょうど確定申告の時季ということもあって、会計の作業をしていた最中に強い揺れが来た。そのあとは、テレビ中継を見ながら、家族親戚の安否を確認したり、散らかった部屋の掃除や、止まってしまったガス器具のリセットをしたり水をためたりと、ライフラインの確保でけっこう忙しかった。しかし、忘れていたことも書いてある。前日の夜は、風邪とケガのため、珍しく酒を抜いて寝ている。そして、地震が来た直後の様子については、そのまま青字で引用します。

 「会計処理を始めた2時45分ごろ、ぐらりと床が揺れて、天井のライトが振り子のようにゆれた。昨日も地震があったので、またかと思ったら続いてかなり激しい横揺れが来た。テレビを付けるとNHKでは国会中継をしており、国会議員たちが茫然と天井を見上げている。すぐに切り替わって地震中継が始まり、最初のニュースは福島原子力発電所の無事。」


 上記のうち、「昨日」となっている先行した地震の日付は、一昨日の間違いだろうと思う。11日に我が家で感じた最初の縦揺れは、この一昨日(9日)のものと、ほぼ同程度であった。「またか」と思ったら、それどころではなかったのだ。これはともかく、そのあとに出てくる「最初のニュースは福島原子力発電所の無事。」という報道を見た記憶がなぜか全くない。よほど強震に驚き、忙しかったからか。

 このニュースは、一体、誰が情報提供し、誰が確認したのだろうか。地元福島のみなさんや、原発業界の方々は、この第一報にさぞかし安堵したに違いない。しかし現実はご承知のとおり惨憺たる有り様が、今日に至るまで続いている。でも当日は、この直後の津波の衝撃があまりに凄まじく、一旦、原発の報道は途絶えたと思う。われわれ門外漢も巻き込んでの大騒ぎになったのは、数日後だったか、原子炉の建屋が吹っ飛んでからだろう。実は原子炉の内部も溶け始めていたらしいのだが。


 被災の数日後だったと思うが、東電の偉い人が「人災だった」と公的な場で発言したという報道内容は、多くの方がご記憶のことと思う。私は意地が悪いので、いまだにこの発表には違和感を持っている。あれは、ヒューマン・エラーだけで起きたものではあるまい。この言い方では、まるで天災は関係なかったように聞こえる。

 言い方を替えれば、「東電が過去から当日に至るまで、作業や判断のミスをしなければ、この災害は発生しなかった」と主張しているようだ。同じミスをしなければ、原発は安全らしい。原子力村民のスポークスマンのようだな。

 実際、着々と再稼働が進め得られている。でも裁判は勝ったり負けたりだし、報道によると福島第一の現場では、いまも約7千人のひとたちが働いているというのに。一体、何の必要があって、どんな仕事をなさっているのか。


 メディアやネットでみてきた範囲における当方の理解では、当日は発電所地震で外部電源を喪失し、そのあとの津波で内部電源も喪失。冷却ができなくなり、暴走が止まらなくなったということらしい。専門用語を私の日常生活に例えると、外部電源の喪失とは拙宅の停電であり、内部電源も失ったということは、うちのパソコンのバッテリーも切れたというようなことだろう。これらが全て人災ですか。

 十数メートルの津波というのは、現地でさえ予想できなかった人が多かったようで、このため逃げれば助かったかもしれない幾多の命が失なわれたらしい。誰かの責任を追及するためではなく、後世の教訓の一かけらにでもなれば良いと思い、当日、なぜか一枚だけテレビの画面を撮影したデジカメ写真が残っているのでアップします。


 よほど慌てていたとみえて、発光禁止モードへの切り替えすらしていないから、フラッシュ・ライトまで写っておる。デジカメ写真は、プロパティに撮影した時刻が秒単位で記録に残る(ただし、私が設定した時刻であるが)。このデータによると、このTVニュースの画面は、「2011年3月11日、14:50:54」となっている。

 地震の発生時刻は14時46分過ぎだから、その五分後ぐらいのものだ。福島県大津波警報は、予想で3メートルとなっている。宮城も岩手も、同程度だ。これ以降、地震発生時の速報では、津波の警戒を呼び掛ける声が大きくなったのはご存じのとおり。なお、この写真はネットでNHKアーカイブにも残っている。重大な教訓なのだ。めずらしくNHKと意見が合った。


 もっとも、今なお一万人以上が原告となる裁判が進行中であるように、人災と語る(あるいは疑う)に値する経緯は、それ相応にあったらしい。以下は私が聞いただけの話なので、別に信用してもらわなくても一向に構わないが、過去は忘れた途端に歴史となり、そして歴史は繰り返す。

 数か月前に、かつて原発の設計技術者であったというお方と、初めての酒席で隣り合わせになった。特に自分の今の職業に利害関係もないお相手とあって、かえって気軽に話ができたのが良かったか、原発の話題でずいぶんと付き合っていただいた。


 一部の報道などでも聴いた覚えがあるが、十数メートルの津波が乗り越えた福島の防潮堤は、もう何年も前から繰り返し、もっと高いものにすべきだという議論がなされ、しかし主に予算がないという理由で却下され続けて来た由。あともう少しで休みだから、点検日だからというタイミングを見はからうように、労災や交通事故は起きる。

 それより今後の話である。当夜の私は遠慮なく、原発は無いに越したことは無いという持論を持ち出し、つまりご本人の長い職業生活を否定するようなことを言ってしまい、とはいえ、いますぐ全廃したら困るのではないかという質問をしました。ずうずうしい。


 お相手の話が熱を帯びたのは、ここからである。もしも廃炉にするならば、当然ながら建設や運転とは違う技術が必要であり、現場はさらに危険であることを覚悟しなければならない。しかし、いま全て廃炉と決めてしまったら、現役のベテランの研究者や技術者や作業員は、職を失い斯業から散ってしまう。何せまだ、過去の廃棄物の処理さえできてないのに。

 しかも彼によれば、すでに大学や大学院で、学生・院生の原発離れが深刻となっており、やむなく学部や学科の名をエネルギー開発のような抽象的な名称にしても、なかなか定員が埋まらないらしい。原子炉と廃棄物を完全に除去するとして、それに何十年かかるのか知らないが、肝心の人材がいなくなり、加えて育たなくなる。どのような道を歩むにしろ、専門職の雇用の確保は不可欠です。ただし、核兵器に手を染めては絶対に駄目。


 現政府と電力業界が、再稼働という手段でこの難題を乗り切ろうとしているのは明らかだが、では原発反対の人たちは、この問題にどう答えるのだろうか。単に当方の勉強不足なのかもしれないが、聞いたためしがない。現地で暮らす人たちは本当に大変だ。でも現実問題として、来年までに取り壊しということができるような相手ではない。

 新聞は毎朝、二紙を読んでいるが、この時期になると当時の被災状況や、被災者・避難者の現在の苦労と努力の記事が掲載され、それはそれで大事な報道だが、気のせいか原発に関しては、ほとんどマスメディアは報道しなくなった。電波を止めるぜと大臣が言っても、この国のテレビは黙ったままらしい。

 かくて私ごときが、いつまでもネチネチと書かなくてはならん。ついでに、誰か政府の偉い人から北朝鮮に伝えてほしいものだ。核兵器原発も、作るより安全に維持管理し続けるほうが、ずっと難しいと考えた方が良い。お互い、ツケをごっそり子孫に回すのは恥ずかしいではないか。それより前に、少しは長生きしたくないかい。


 今日はこういう話題だから、楽しく終わる訳にはいかないが、きちんと締めくくりたい。去る3月5日の毎日新聞の朝刊の記事。全国紙の社会面に大きく出たこともあり、ご覧になった方も多かろう。私より少し若い男性に対する取材である。記事では人も場所も全て実名だが、ここでは伏せる。

 地震のあと海から2キロ離れた海抜10メートルを超える両親宅に家族で避難した。それでも津波は来た。とっさに両親の手を握ったが、強い力で引き離された。妻と長女が濁流に流され、しかし後に、奥様は木の枝をつかんで生還した。
 
 長女の名を呼ぶと、荒海の中から返事が来た。ここで自分が飛び込めば、救助できるかもしれないと思ったそうだ。それと同時に、ここで家族が全滅したら、いま中学校にいるはずの次女が一人きりになってしまう...。ご両親と長女は遺体でお戻りになった。


 こういう経験と心痛をかかえたまま、生き続けている。黙っていれば誰も分からないことを、公にするまでに、どのような心境の変化があったのか、私には全く分からない。これを5年かけて取材した記者さんも大したものだと思う。誰にでも打ち明けられる話題ではない。

 これを読んで、いつも映画のDVDを借りている宅配レンタルのサイトを開けて、アメリカの古い映画「ソフィーの選択」を探してみた。30年ぶりに観たくなったのだ。しかし、主演メリル・ストリープの作品は山ほどあったが、「ソフィーの選択」は昨日時点で無かった。

 彼女の出世作だし、オスカーのメイン・アクトレスに輝いている。それが無い。偶然とは思えない。この国では災害や戦災のような、見ると辛くなるようなものは、少しづつ追いやられているように感じる。「はだしのゲン」もそうだった。広島出身の知人によれば、現地の記録は「あんな程度のものではない」という。政治も経済も社会も避けて通るのがお上手になった。


 先ほどの記事に戻る。家族を失った男性は、自宅と商売の文具屋を再建したものの、なかなか心は立ち直れなかったのだという。助けてくれたのは当日の話を伝えた友の「踏ん張ったな」という言葉、そして昔は鰹の遠洋漁業に従事していた父親が、自分が生まれたのを機に廃業し、慣れていなかったであろう文房具屋を始めたのだと語っていた言葉。

 いわく「家を長く空けなくても済むように」という理由だったそうだ。いま海に戻ったご尊父は、「貧しくても、うまいご飯を食べていければ、それでいいっちゃ」と言っていらしたそうだ。なんだか、鰹が食いたくなってきた。私のお気に入りなのだ。さて、明日は福島に行ってくる。






(この稿おわり)






 
 

春な忘れそ (2016年3月3日撮影)










 やめときな 長生きしてえ

    ”Love Me Tender”    RCサクセション
      words and music by ELVIS PRESLEYさん & VERA MATSON
      translation by K.IMAWANO











本日時点で、本震災の行方不明者は、2,561名。一刻も早くお戻りになるようお祈り申し上げます。


























.