おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

モロボシダンの名を借りて  (第983回)

 最初に一言、また文句。一般相対性理論は、よげんの書か? 新聞もテレビも重力波アインシュタインの予言と呼んでいるが、自然科学の世界なのだから仮説だろう。このたび実験で検証されたらしいということだ。

 また、ノーベル賞間違いなしと報じているけれども、以下は私の個人的な解釈に過ぎないが、あの賞は実用性が重視される(平和賞や文学賞は不明)。山中さんの受賞が早かったのが好例だ。なんせ資金源がダイナマイトだもんね。いったい、どうやって使うのだ、重力波って。


 さて。神様たちの万引き事件のあとに、お姉ちゃんキリコ関連の場面が続く。戻って来た息子に対して、お母ちゃんは「あんた、弁当6個は?」と狩りの成果を確認しているのだが、ケンヂは手にしたレザーぢゅうと手紙をコンビニの石ヤキイモ箱の上に載せて尋問は無視、売り物の新聞で通天閣そばの細菌兵器事件に見入る。

 カンナがおじちゃんを見つめている。腹を刺された男は、「”ともだち”は必ず...」という思わせぶりなところで息絶えてしまい、ケンヂには「地球を救え」というミッション不可能だけが残された。カンナをどうするつもりなのか。なぜカンナなのか。とりいそぎ映画のケンヂは、母親たる姉キリコの部屋がある二階に急いだ。


 つきとばされたお母ちゃんは、「何だよ、変な子だねえ。」と呆れている。四十近くになって「子」なのだが、我が家も同じで、うちの親の世代(特に母親)は、よその人とのお喋りで自分の子供を話題にするとき、いまだに「この子」「あの子」なのだ。私に話しかけるときも遠藤家と同じで、「あんた」である。手に負えない。

 キリコの部屋は多分、出て行ったままで整理が行き届いている。机の上に顕微鏡一つ。天体望遠鏡と異なり、顕微鏡だけでは仕事にも趣味にも使えそうにないと思うのだが、とにかく顕微鏡一つ。本棚には細菌やウィルスの専門書が並んでいる。

 
 とはいえ例外もあり、愛読書なのか「ジャッカルの日」がある。ジャッカルはゴルゴと同様、テロリストだと思うのだが、正義の国で活躍などすると、そういう風には呼ばれない。単行本「24人のビリー・ミリガン」もあるが、こちらは読んだことがない。作者はアルジャーノンと同じ。ビリーは、一人24役という多忙を極める多重人格者であるらしい。

 そして、ベッドに枕が二つ。読者が知る限り、キリコがここで誰かと一緒に睡眠をとっていた記録はない。ベッドもシングルで狭すぎる。私と同じように抱き枕の習性があったか。似たような光景は、ゴッホの「寝室」という絵にある。私はこの絵を欧州旅行の際にアムステルダムで見たし、最近では東京のルーブル展で見た。


 彼が南フランスのアルルに住んでいたころの作品である。私にとってのアルルは、まず短編小説「最後の授業」に感じ入り、ドーデの小説集を読み、戯曲「アルルの女」のためビゼーが作曲したクラシック音楽のレコードまで買ったほどで(以上すべて、まだ立派だった中学校時代)、大変よい印象を持っている。

 実際のアルル地方は、冬にはアルプス降しの寒風ミストラルが吹き荒れ、夏は蚊に悩まされる土地柄だそうで、スタンダールほか同国人の評判は必ずしも良くない。ゴッホも愛憎半ばという感じの手紙を弟テオに何通も送っているが、しかし絵心は刺激された様子で、私はこの時期のゴッホの絵が好きである。


 すでに小欄でも取り上げたものとしては、この「寝室」のほかにも「アルルの港」や、人気の高い「夜のカフェテラス」がある。「跳ね橋」もいい。うちにあるアルバート・ルービン著「ゴッホ」(講談社学術文庫)によると、ゴッホは「夜のカフェ」と「寝室」を一対のテーマとして同時期に描いたらしい。前者が「人間の恐るべき情念」、後者が「休息と眠り」だそうだ。

 もっとも、ゴッホはこの地で自分の耳朶を切り、娼婦と揉め事を起こして、その種の病院に入れられている。一人暮らしだったはずのアルルの寝室には、なぜか枕も椅子も壁の絵も一対ずつ描かれている。休息と眠りは束の間のことだったのか。それとも儚い夢に過ぎなかったのか。そして、キリコ姉も穏やかで落ち着いた暮らしを続けていくことはできなかったのだ。


 まだ何も知らないケンヂは、机の引き出しを検分し始める。映画のケンヂには覚えのない「諸星壇」という東京都世田谷区成城にお住まいの方からのお便りを見つけたが、さすがに盗み読みは避けた。他の封書の中に、差出人の名が無いものが一通ある。宛先も手紙も全てワープロ打ちの気色悪いもので、「同じ計画」を持つ人に巡り会えて素敵であると書いてあった。

 これは「釣り」であろうか。ケンヂも何だこりゃと呟いているのだが、更に不気味なことには、足元にひらりと落ちた紙切れが一枚。そこには例のマークがまたしても、こちらを片目で瞬きもせず睨んでいる。この共通事項が続出しているのに断片的な情報ばかりで、解決の糸口を得るどころか、謎は深まるばかりなのであった。


 キリコ相手に「同じ夢」などという言葉を使ったら、もう相手にされなかったかもしれないが、相手を見て言葉を選んだのか、サイエンティストに「計画」という言葉は、閉塞感のある生活の中で一筋の光に見えたのかもしれない。漫画では、説得方法はこれだけではなかったのだが、映画は時間切れ。

 キリコは遠藤酒店の制服である前掛け姿で掃除などしているのだが、われらの現実の世では、同じサイエンティストでも割烹着を着て見せたのがいた。ことの真相は知らないので一方的に責めるのは控えるが、ただしこのたび無断で本を出して、ご遺族の反感を買っているらしく、これは良くない。当時、研究仲間が嘆いていたのを講演で直接聞いたことがある。あの人を巡る騒ぎは疲れるだけ。彼に戻って来てほしい。


 キリコにご執心の登場場面は、次の機会に譲るとして、諸星さんの名はウルトラセブンから採ったということで、どなたもご異論はあるまい。同姓のアイドルがいるようだが、時代が全く違う。大二郎の漫画は怖い。もう一人、こちらは微かに可能性を残しているが、バンコクの街角でオッチョも思い出していたラムちゃんの冴えない「ダーリン」諸星がいる。高橋さんにおかれては相変わらず脇役のほうが魅力的で、錯乱坊と面倒が秀逸である。

 ウルトラセブンは、性別不明、住所不定、いつのまにか兄になったウルトラマンとは似ても似つかず、少なくとも親の片方は別のはず。アイスラッガーを飛ばしたあとの頭が淋しく、戻って来たブーメランを受け止め損ねたら大惨事になっただろうが、無事、シリーズを終えた。映画でオッチョ少年がマネッコしているエメリューム光線も強力だが、何よりカラー・タイマーがないので安心して戦っている。


 ウルトラマンウルトラセブンは、いずれも十歳になる前にテレビで見ていたのだが、私は単純な怪獣が粗暴に暴れた挙句に、あっさり退治されてしまうウルトラマンのほうが分かりやすくて好きであった。ウルトラセブンでは、何とか星人が次々と出てきて心理戦などをしかけるため、小学生の下のほうの学年では薄気味悪い感じもした。今にして思えば、気に入らないところは見過ごすだけで良かったのだが、真面目に観てしまった。

 集団で戦うにあたり、チームワークが円滑に機能するため、道化の役割は重要である。かつての巨人軍ではナガシマがこの役目であったが、監督になってからは彼を超える道化を欠いてしまった。サイボーグ009では、中国人のおじさんが頑張っている。七人の侍では、もちろん三船敏郎がこれに当たる。念のため、道化というのは悪ふざけ者ではない。ピエロとも同義ではない。シェイクスピアに出てくる道化は命がけだ。


 そして、ハヤタもモロボシダンも、地球防衛用の組織の一員としては、道化役を務めていて、なかなかこういう設定も大人の鑑賞に堪えうると思う。みんなして大真面目では、戦う仲間同士も、傍で観ている方も疲れてしまう。子供時代の秘密基地ではマルオが、2014年以降はコイズミが担った。現代風に軽く言えば「天然」に近いか。

 諸星さんは誠実さと熱意を絵に描いたようなお人であった。もっと年若いころの漫画のキリコは、まだ江戸っ子娘の風情を残していたが、不出来な父や弟のせいで苦労を重ねたせいか、彼女もお転婆ユキジを羨みつつ、段々とこの道一筋の人生に絞り込んだような人柄になっていく。二人して同じ調子では、一緒になったら大変だと、彼女の潜在意識がつぶやいたかどうか、そんなの知るべくもない。





(この稿おわり)





鷹。ラドンにリトラ。ウルトラホーク。
(2016年1月2日撮影)




クリスマスローズ
(2016年2月7日撮影)








 夜が来ても 朝が来ても
 春が来ても 夏が来ても
 秋が来ても 冬が来ても
 僕にはもう 貴女しかない

      「ダーリング」  沢田研二









 Although I laugh and I act like a clown,
 beneath this mask I am wearing a frown.

 道化のごとく振る舞っていても
 俺のお面の下はしかめ面なのだ

     - これもジョンレノン













 

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