おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

勝浦のケンヂ    (20世紀少年 第222回)

 ケンヂとオッチョは、少年時代には遊び友達、冒険仲間であり、大人になって戦友になるが、二人きりで話をしているシーンというのは、ほとんどない。第7巻の70ページ目に、その貴重な例外がある。私の好きな場面のひとつ。小さな公園のブランコに座り込んでいるケンヂの後ろ姿に、通りがかったオッチョが気付いた。

 そんなところで何やってんだとオッチョは声をかけている。これから中村の兄ちゃんのところでCSN&Yの新譜を聴きに行くので一緒に行かないかと誘っている。クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング。一枚持っています。「マラケシュ・エクスプレス」の入っているやつ。(後記:これはヤングが入る前のCS&Nの間違いでした。失礼しました。)

 ここでも私と中村の兄ちゃんの意見は合わない。オッチョによると中村の兄ちゃんは「CSN&Y聴いていると、祭りのあとみたいな切ない気持ちになる」そうだが、私はそうは思わない。だが、このときのケンヂにとって「祭りのあと」は切なすぎる言葉だった。「俺のお祭りも終わったよ」という。万博に行けなくなったのだ。


 父ちゃんが同じ日に海に行く計画を立てた。「そんなのナシにしてもらえばいいじゃんか。こっちの予定のほうが先なんだから」というオッチョの意見は正論だが、大人には大人の事情があったようだ。さては、またアズキ相場にでも手を出したのだろうか? 

 父ちゃんは「そんなもんは許可した覚えはねえ」と言っているところをみると、一家総出の計画だったのではなく、ケンヂだけ他の子供たちと行く予定だったのだろうか。そうであれば母ちゃんと姉ちゃんが冷たいのも当然で、ケンヂは泣いて抗議したようだが、多勢に無勢、衆寡敵せず、断念せざるを得なかった。

 
 ケンヂの理解では「父ちゃんは新幹線代を払いたくないだけなんだ」そうだが、代わりに千葉の勝浦に行けるのであれば、私なら歓迎するな。勝浦には一度だけ泊まりがけで釣りに行ったことがある。太平洋に向かって開けた、明るく温暖な港町である。朝市でも有名。房総半島の勝浦や白浜は、その昔、紀伊半島那智勝浦や温泉で名高い白浜から漁民が移ってきたのが地名の由来とも云われる。

 だがケンヂにとっては、釣りも海も万博とは比べものにはならない。しかも皮肉なことに、勝浦で泊まる親戚の家が5日も空いたのは、その一家が万博に行くためだったのだ。オッチョも辛い。自分は万博に行けるのだから、もうケンヂとは万博の話など、気の毒でできないではないか。「俺の自転車、貸してやろうか」と言うのが精いっぱいであった。

 
 この申し出に対してケンヂは、「わかっているよ。小学生がひとりで自転車で大阪に行くなんて無茶だって」と怒りをぶちまけている。そう思うならドンキーに貸すなというのは野暮の骨頂であろう。ドンキーの意気に感動し、喜んで貸したのだし、それに友達ならば、誰が断れようか。

 オッチョも野暮ではない。口をつぐんでしまう。少年たちの短い影を、夏の太陽が地面に落す。あの年、こんな会話が日本中の家族や友人の間で、繰り広げられたのかもしれない。

 ケンヂは勝浦の海岸で、ひとり「こんにちは」の歌をうたって過ごした。彼がジジババの店から勝手にバッヂを持ち出したのは、この件と同じ夏のことだが、どちらが先の出来事なのか、前後関係は分からない。万博事件が先で、万引事件が後だとしても、因果関係は分からない。


 ただし、この夏休みの終わりごろ(8月29日未明)、ケンヂやオッチョが首吊り坂の屋敷で決行した肝だめしは、万博未消化の影響が出たのかもしれない。オッチョも存分に万博を楽しんだ訳ではなかったのだ。彼がせっかく綿密な計画を立てたにも拘わらず、ケンヂの父ちゃんがいう「あんな混んでて、くそ暑いとこ」は想像を絶したものだったようで、アメリカ館の行列に並んでいたとき、ヨシツネが日射病で倒れた。

 この場面は第12巻の126ページにヨシツネの回想という形で、多少詳しく出てくる。日射病は死に至るおそれのある病である。救急車が呼ばれ、同行のオッチョとマルオも付き添っただろう。日ごろの言動からして、ヨシツネを見捨てて、万博見物を続けるような男だちではない。

 そして、短い滞在期間、とうとうアメリカ館で月着陸船の模型や「月の石」を観ることはできなかったのではないか。少なくとも、残りの日程のかなりの部分はキャンセルされたはずだ。やんちゃ坊主たちが、この夏もうひと騒動、起こしたいと思ったとて不思議はない。


 ちなみに、ケンヂが言うとおり、小学生がひとりで東京から大阪に行くのは私も無茶だと思うのだが、ではなぜ無茶なのかを考える。東京と大阪の距離は500キロ以上ある。これを往復しなければならない。東海道とて坂も多いし、自転車の平均速度を小さめに10キロと見積もると、片道50時間かかる。一日7時間走るとして1週間ほどかかる。往復で半月。

 この間、体力・気力が続くか、道中の食事と宿泊をどうするのか、安全かどうか、道は分かるのか、雨が降ったらどうするのか、風邪をひいたら困らないか。課題山積であるが、ドンキーに鉄の意志と強靭な脚力があるとしても、最大の問題は飲み食いと宿の金だろうな。彼は自転車が壊れなかったら、どうするつもりだったのだろう。


 前にも触れたが、ケンヂとドンキーは当時の私と同様、夏はランニングのシャツで過ごしている。貧乏な家に生まれれると、ファッション性で劣るばかりではなく、万博にも行けなかったのだ。理不尽だが、この程度の理不尽の積み重ねで鍛えられて大人になるのが人生なのであれば、それも仕方がない。

 ともあれ、ドンキーは、6年生のときの「理科室の夜」の様子からして、このショックから立ち直り、科学的な少年に戻っている。しかし、大阪万博は何人かの子供たちの心に暗い影を落とした。今後その話が随所に出てくるのだが、この段階で、一旦、整理してみたくなった。しばらく悪について、陰の部分について語っていないので、ちょっと淋しいのです。


(この稿おわり)


勝浦での釣果。ケンヂ少年、せめて鮮魚は味わったか...。
(2010年8月22日撮影)