司馬遼太郎は複数の著作において、中庸・中道というものは観念としては成り立ちやすいが、そのとおり実行するのは難しいという趣旨のことを書いている。また、別の機会に引用した覚えのある「街道をゆく43」には、こんな文章がある。
古代ギリシャの哲学者は、勇気と無謀は違うとした。無謀とはその人の性情から出たもので、いわば感情の所産であるといっていい。勇気は、感情から出ず、中庸と同様、人間の理性の所産であるとした。
私自身は至って保守的な人間であり、年を重ねるに連れてますます保守的になってきた。念のため、右翼ではない。この両者が似たようなものだった時代もあったが、最近では憲法の議論など聞いていると、どう考えてもかつて革新と呼ばれていた左側の政党のほうが極端な保守である。
私が自分は保守だと言うのは、あまりに世の中が急に大きく変動すると付いていくのが大変面倒なので、余り変わってほしくないという意味である。政治的には中村の兄ちゃんと同じくノンポリであり、例えば一番右の政党にも、一番左の政党にも投票したことがある。
中道とは仏教の概念らしい。中庸はおなじみ儒教の書名でもある。この稿を書くに当たり、「中庸」を読もうとしたのだが一行目あたりで疲れて止めた。なんせ解説によれば、四書の中でも最も深遠なものとされ、最後に読むべき書であるらしい。まず他の三つを読めと仰るか。
しかし司馬さんの主張は、儒教を会得しないと理解できないというものでもあるまい。彼がここで言わんとしていることは、自分でも分かる範囲で換言すれば、感情に振り回されず、理性の出動を怠るなということだろう。
でも、その実践が難しいとも言っている。実際、日本では中道の政党がなかなか育たない。左右どちらか旗幟鮮明にしたほうが、感情的になりがちな無党派層を取り込みやすいのだろう。これを書きながら、もう何年も前に偶然テレビで観たドキュメンタリー番組を思い出した。軍服姿で街宣車に乗っている若者を追ったものだった。
取材者に「なぜ、この道を選んだのか」と訊かれて、彼は私にとって意外な返事をした。「右翼でも、左翼でも良かったんだけれど」。それしか言わなかったので真意は不明であるが、要するに感情を爆発させたかったからだと司馬流に考えれば、この極端な発想も筋が通るっちゃ通る。
先日、どこぞの若い代議士が、反戦デモという再びお目にかかるとは思ってもいなかった集団行動に参加した学生らの主張について、戦争に行きたくないという「極端な利己的考え」とつぶやいて世間の顰蹙をかった。
いや、顰蹙をかったと思うのだが、政権与党をクビになっていないから、同党も口先で何と言おうと、いつものように単なるアジテーターの出番だったようだ。要するところ、若者を戦争に送るつもりであることが一発ではっきり分かったのだから、さすが国会議員だ。
しかも、悪者は戦後教育であるらしい。その戦後の大半の時期を、自らが所属する政党の先輩議員が、総理大臣や文部大臣を務めていたことをお忘れか。日教組のせいにばかりにしてはいけない。それほど教育を重視するなら、当然、政府全体の責任である。おかげでこういう議員が育ったわけだ。
確かに教育は諸刃の剣だろう。うちのお袋は、あれほど戦争を憎み、戦前戦中の軍国主義教育を嫌いながら、昭和天皇の薨去の際は大泣きしたらしい。ちょうどそこに、無断で実家の敷地内に入って来た押し売りが玄関先に現れたそうだが、泣いている老婆をみて即刻、退散したらしい。お気の毒に。
私が青少年時代に司馬遼太郎を愛読していたころ、この作家は左翼方面から、戦争好きとか、天才英雄主義などと攻撃されていたものである。それが死後の今頃になって、ネットや雑誌では、反対方向から自虐史観だの作品は事実無根だのと(小説なのに)叩かれている。
日本もずいぶん変わったものだ。作家ご本人がいうとおり、左も右も、集会やらデモやら拝見していると、おそろしく感情的でヒステリックである。歩く自己陶酔とでもいうべきか。
私の知り合いにジャーナリストがいて、ブログ等で冷静で中立的な国際情勢の解説などしているが、近隣国を悪く書かないのでコメント欄は罵詈雑言の嵐である。ご本人に確認したところ、「ああいうのは、お金をもらって書いている」のだそうだ。スポンサーは教えてくれなかったが、まるで振り込め詐欺の手配師とそっくりだな。
でも、9割の人は支持してくれているから、自分は平気だと言ってみえる。そうでもなければ、報道の仕事など務まらないのだろう。そこは立派だが、しかし、これらの悪口雑言は、ネットの中でいつまでも残り、若い世代の「教育」を続けてしまいかねないではないか。
きりがないな。先日書いた戦死した伯父について、ようやく古い戸籍が手に入った。全て手書きであり、字もにじんでいるし、そのコピーだから読みづらい。なんとか判読できる箇所に、「昭和拾九年九月参拾日 午後四時三拾分 マリヤナ島ニ於イテ戦死」と書いてある。日時は「司令官」の報告によるものだそうだ。
これだけではマリアナ諸島のどの島かも分からないし、陸軍なのか海軍なのかすら分からない。とはいえ実家の言い伝え通り、そのころそのあたりで戦死したという情報がようやく入って来た。ちなみに、彼は我が祖父母の婿養子になったとき、伯母と「同日入籍」しており、戦死はそのわずか半年後である。
こういうおそれがあることを嫌うのが利己的なのか? 私は言葉尻を捕らえるのが好きなので、議員が使った「利」という表現に注目する。戦争に行きたくない、戦死したくないという当たり前の気持ちは、どうやら彼の利害に反するらしい。さすが近江商人発祥の地で選ばれただけあって、そろばん勘定が上手いのだろう。
なお、サイパンでは昭和19年6月に、グアムとテニアンでは同年8月に、陸軍が全滅している。9月となると、その後ということになってしまう。アメリカ軍はずいぶんと敗残兵の掃討作戦をやったそうだから、その犠牲になったのだろうか。東京は今日も晴れて暑く、セミの声がかしましい。あの日もそうだったとお年寄りがいうのをよく聞く。
(この稿おわり)
せめてお花など手向けますか。
青空が好きで 花びらが好きで
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