おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

びんぜつふじん  (第941回)

 日活が来年を目途に、ロマン・ポルノ・シリーズの制作を再開するとの報に接し、近年まれにみる快事、太平の眠りを破る朗報、まこと欣快の至りである。私も久しぶりに映画館に行きたくなってきた。あれは自宅のディスプレイにて、こそこそ観るべきものに非ず、大音響大画面で受けて立たねば覚悟の女優に無礼千万。

 今を去ること40年以上前、田舎の小学校の前で、ときどき万丈目風のおじさんが立っていて、映画の割引券を登下校する子供たちに配っていたものである。今や上映用の映画はデジタル情報でやり取りされるのだろうが、かつては「ニュー・シネマ・パラダイス」に出て来たように、化学製品のフィルムで買ったり賃借したりして上映していたのである。


 したがって、先行投資した以上は、客の入りが悪いという程度ですぐに打ち切りという訳にもいかず、こうして子供まで巻き込んで割引セールをしていたものだ。この割引券はケンヂが持っていた「ポセイドン・アドベンチャー」の前売り券のような、その映画しか観られないという狭量なものではなく、裏に印刷してある全映画館の一二か月分くらいある上映予定の映画全てに利用できる。あとは親が金を出すかどうかだ。

 この上映スケジュール表には、上の方に「十戒」とか「八甲田山」とか親が金を出すかもしれない釣り餌が載っていて、下の方に成人映画が並んでいる。それを惜しげもなく子供に渡すのが興行主の心意気というものであろう。私たち知的好奇心旺盛な健康優良児は、下段の映画のタイトルを読んでは楽しんでいたものである。「それいけ痴漢」というのを覚えている。女子も含め、みんなして大笑いだった。


 この種の映画は、新聞等に評論が載るでもなく、アカデミー賞その他で脚光を浴びるでも無し、いきおい題名と女優名で客寄せをしなくてはならない。この漫画においては「びんぜつふじん」とか、「肌じまん」とか、そういう類の売り口上が不可欠となる。肌じまんなんて、いまでも化粧品のCMに使えそうだ。

 これはもう書いたかもしれないが、吉行淳之介によれば男にとって皮膚とは筋肉その他を入れておく包み紙みたいなものにすぎないが、女にとっては人格に属するものであるらしい。私にはこの感覚が分からないが、ここは大人の女のご意見を賜りたい部分である。一方、モンちゃんが懐かしんでいた「団地妻」というシリーズ名は、時の流れで古びてしまい、今やキャッチ・フレーズとしてのリアリティに欠ける。


 したがって、天下の日活がいかなるシリーズ名、作品名で勝負してくるのか、映画ファンとしては固唾をのんで見守るのみ。良く知られているように、成人映画は多くの映画人が成長し、監督や撮影として巣立っていく現場でもあった。限られた予算と動かしようのないテーマ、立ちはだかる映倫。この制約に挑戦し興行を成り立たせねばならないのだ。バタフライって、ご存知だろうか。昆虫でも水泳競技でもないのだが。

 その観点からすると、21世紀のロマン・ポルノは、いかにして若い世代を取り込むかが重要な検討課題であり、どうせ我らおっさんたちは、放っておいても観に行くのだから、マーケティング・ターゲットは若年層である。そして、間違っても入場口で年齢確認などしないように。煙草と違って、健康には悪くない。あれを不健康と呼ぶ人こそ不健康だ。


 最近話題にしたドラッカーも、人間の欲望に訴えることの重要さを説いている。彼はマーケティングとは販売のことではなく、その正反対だという。ここでいう販売というのは、伝統的な売り込みのことだろう。マーケティングとは、相手が欲しがっているものは何なのかを見極める経営戦略の極意である。

 ここで本件に即して考えるに、人間の(少なくとも男の)性欲は生まれたときから旺盛に持っているものではなく、つまり本能ではなくてラカンのいうように後天的に刷り込まれた部分が大きいのではないかという懸念である。この主張には充分に心当たりがある。欲しがれという天の声か社会の要請か、また、それに加えて手に入りそうだという期待もなくてはならない。


 このことの典型が、この漫画でいえばトモコさんとコイズミの英語教師で隣のクラスの担任だったエロガッパ教師の盗撮事件である。撮影済みのフィルムを現像に出さないといけなかった時代に、盗撮という犯罪は一般的ではなかった。先にデジタルという手段が発達し、欲望がついてきたのである。

 ただし、あれを性欲と呼んでいいものか。私などは、フラストレーションがたまるだけではないかと危惧する。概ね、ネットに投稿して小銭を稼いだり、威張ったりできるという劣情よりも劣る動機を抱えて人の道を踏み外し、挙句の果てに社会人としての人生を台無しにするとはバカじゃないの。


 当家の辞書によれば、「フェティシズム」とは、「(1)呪物崇拝、(2)物神崇拝、(3)異性の衣類・装身具などに対して、異常に愛着を示すこと。性的倒錯の一種。」

 (1)は日本の古代宗教にも広く見られるし、蝶野刑事のお守りもお母さんにとってみれば「効く」のだからフェティシズムなのだ。(2)は私と同世代の経済学部出身ならご存じの方も多いと思うが、カール・マルクスの概念であり、マドンナに言わせると「マテリアル・ワールド」。

 なお、辞書には「フェチ」という項目もあり、フェティシズムの上記(3)の略とある。ここまでは良いが、「また、一般に特定のものに異常な愛着を示すこと」とあり、その用例として「辞書フェチ」と書いてある。大丈夫か、広辞苑は。


 話を元に戻すと、どうやら今の若き日本人男性は、アンケート結果等によりますと、あまり性的にギスギスしていないらしい。煩悩がなければ、それはそれで苦しみも少なくて済むとお釈迦様なら仰るかもしれないが、自由経済の市場原理からすれば、一定数の入場者がなければ上映は続かない。それとも、すでにDVDやブルーレイとやらのレンタルで稼ぐお積りか。

 折角の機会である。映画館に行こう。あいにく現代は検索文明であり、自分が興味を持つ情報にしか辿りつかない。したがって、映画会社はネットに販促を頼り過ぎては駄目で、何とか抵抗勢力を説得しつつ、ポスターでも割引券もいいから、三次元の現実世界で頑張っていただきたいと思う。応援します。




(この稿おわり)



 


写真は普通  (2015年5月13日撮影)







 あなたに逢えた 
 それだけでよかった
 世界が光に満ちた

     「アゲハ蝶」  ポルノグラフィティ
















































.