おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

シャイニング  (20世紀少年 第911回)

 お久しぶりです。長いこと投稿していなかったので、このブロガーは他界したのではないかと思われていたかもしれない。生きてはいるのだが、独立開業以来、他に比べ得る時期もないくらい今年の夏から秋にかけては忙しく、9月上旬に宮古島に旅行して以来、終日休めたのはただ一日だけという有様。

 その多忙な業務はまだ終わっていないのだが、ずっと体調も良くなく、昨日までの出張で身体も疲れたので、今日は久々の完全休養と相成った。というわけで、本日は映画の感想文をもって約1か月ぶりの更新です。


 映画の名はタイトルどおり「シャイニング」という。学生時代に映画館でロードショウを観た記憶がある。今回は本筋にはあまり触れないが、私なりにハイライト・シーンと思う場面を二つ取り上げるから、やはり未見の方は先に映画をご覧くださったほうが良いです。ただし、心臓が停まっても責任は負えません。

 原作がスティーブン・キング(角田氏が「ひみつかいぎ」の招待状を発見するヒントを、そうとは知らずオッチョに示したお話しに出てくる)、監督はスタンリー・キューブリック、主演がジャック・ニコルソン。こういう顔ぶれが出そろったら、超娯楽大作なんつう生易しいものが出来上がるはずがない。


 この映画には、あのころ流行っていたスプラッター・ムービー的な要素もあるのだけれど、私が今回、取り上げる二点はそういうシーンではなく、ヒッチコック的な怖さの場面である。コンピュータのHALが、「たった一人の反乱」を始めたときのような感じの恐ろしさ。

 これをまた例によって、強引に「20世紀少年」に関係づけようという魂胆で書きます。最初は第4集の「闇の奥」に出てくるエピソード絡み。星君ケンヂが投じたニセモノ大リーグボール2号を、花形ヨシツネが打ち損じて、一つしかないボールがボークーゴーに入ってしまう。

 
 いつもどおりオッチョに押されてケンヂが拾いに行こうとした矢先、軟式野球ボールが闇の奥から「ポーン」と弾みながら返球されてきた。それ以来、ケンヂは暗所恐怖症になり、「何が地下の帝王ケンヂだ」と不当な評価に怒っている。

 このときオッチョは、あの洞窟には近所のおじさんがキノコを栽培していたのだと解説し、ケンヂを苦笑いさせている。だがこれは単なる可能性の提示に過ぎない。真相は違うものかもしれない。だから安心している場合ではなく、実際、”ともだち”にマネされて、再びボールが転がって来た。


 映画「シャイニング」では、年ごろが幼稚園児ぐらいの主人公の息子が、ホテルの床で遊んでいたときに、黄色いボールが転がって来る。もっとも野球のゴロ風ではなくて、ボウリングに例えればストライク・コースで来た。少年は前に伸びる廊下を見渡す。誰もいない。

 この映画も漫画同様、超能力を持った子供が出てくるのだが、その彼にも誰が投げたのか何も見えない。しかし実際は見えている。彼がいる建物そのものが、この場面では中山律子さん的なのであった。

 しかし、映画は余り謎解きのようなことをしていない。それで良い。キノコおじさんで片付けてしまっては、折角の怪談が台無しであろう。首吊り坂の屋敷の2階には、本物のオバケではなくて、ホームレスか誰かが棲みついていたというのでは面白味がない。カツマタ君が居るかもしれないほうがいい。


 もう一つのシーンは、ちょっとした解説を付す。「dull」という英単語を確か高校で学んだ。「退屈な」というような意味だと教わった記憶がある。私がロサンゼルスにいたときだったか、アメリカ人が或るスポーツ試合を評して、「a dull game」と言っていたのを覚えている。

 この単語は当家の辞書によると意味がいろいろあり、ひとを退屈にさせるもの(上記の意味)もあれば、自分が退屈であるときにも使える。この点、日本語の「だるい」と発音も意味の二重性も同様なところが面白い。

 単に活字のスペースを余らせるために、日本のスポーツ・マスコミはダルビッシュ投手を「ダル」と報じるが、極めて無礼な表現である。即刻、止めるべきなのだが、私が言っても耳を貸すまい。かつて複数の新聞社に追われた経験がある(念のため、被害者の一人としてです)。あんなに傲慢な連中は他に知らない。


 さて、英語に「All work and no play makes Jack a dull boy.」という格言がある。辞書にも載っている。学んでばかりいて遊ばないと、ジャックはだるい少年になるのだ。この映画の主人公は、演じた役者と同名で、ジャックというファースト・ネームを持つ。ジェイコブの略称で、ヤコブの梯子のヤコブさんに由来する。欧州人は聖なる人々の名を平素よび捨てにしているのだ。

 主人公は作家で(恋愛小説家には見えないが)、当時はまだWORDも一太郎もない時代だから、タイプライターを使っている。だが、なかなか書けなくて悩んでいる。そんな彼が大量にタイプ・アップした紙を残したまま離席しているとき、妻は見た。すべての紙、すべての行に、「All work and no play makes Jack a dull boy.」と書き連ねてあるのを。


 ここから明らかに物語が暗転する。同じような場面を、私は「20世紀少年」の第16集で見ている。「万国博は本当に楽しかったです」。フクベエ渾身の作品(work)であるテルテル坊主は、子供たちの遊び(play)の対象にしてもらえず、更に2階にいるはずのオバケも彼だけ会えず、自分がめぐりめぐってテルテル坊主の顔になった。

 フクベエが単なる意地悪で偏屈な少年から、平気でネズミを大量死させるような犯罪者予備軍に仲間入りしたのは、この夏の「失敗だ」という件と、「あんな奴」(サダキヨに捨てられた件)がきっかけになっている模様である。

 秘密基地をケンヂたちが作って神様が壊しただけが、”ともだち”を生んだのではないのだが、正義の味方はたとえ部分的な責任からでさえ逃げてはいけないらしい。本当に「よっぽど楽」か?


 映画の舞台になったコロラド州は、遠い昔、レンタカーで突っ走ったことがある。冒頭シーンのとおり、本当に美しい土地だった。ただし、夏だったので雪の怖さは知らない。なお、映画には冬のコロラドで過去に起きた話として「1970年の悲劇」が出てくる。

 万丈目によると1970年といえば、万博の年だ。ボウリングの全盛期でもあった。原っぱの秘密基地は、そのころ滅びている。大阪に行きたくても行けなくてサダキヨとケンヂとドンキーにとっては悲劇の年だったが、”ともだち”は嘘のつき始めになった。



(この稿おわり)








(2014年11月14日撮影)







 Lay down all thoughts
 Surrender to the void
 It is shining
 It is shining

      ”Tomorrow Never Knows”   The Beatles




 考えるのなんかやめよう  (高須みたい)
 闇の奥に屈すべし
 それが輝くということだ
 それが輝くということだ
 







































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