最初におまけ。先日、浦沢さんと庵野さんの生年が私と同じという話題を出したときに一つ書き忘れた。こちらは作者における共通点ではなく、エヴァと20世紀少年という作品における共通点。2015年である。
これに気づいたところで、なぜ2015年なのかという頭痛の種がまた一つ見つかっただけだな。エヴァのほうは、私が知らないだけでファンの方々ならご存じなのかもしれないが。ともあれ今年は日本も忙しいらしい。
これまで私がこのブログで無造作に「ヴァーチャル・アトラクション」(以下、VA)と書いてきたものは、本当のところ、その一部を指す固有名詞であって、登場したばかりのころの第8集では、ヨシツネがコイズミほかを相手に、VAの「ボーナス・ステージ」と語っていたものだ。つまり研修施設だか洗脳設備だかよく分からんが、とにかく本来のVAにおいては、成績上位者しかボーナスを得ることができない。
通常の参加者は、最初のうちコイズミが苦労していた部分、例えばテロリストたちを撃ったりとか自転車で走ったりとか、ごく一般的に私たちがイメージするヴァーチャル・リアリティーを体験するのみであった。もっとも登場人物たちも後の方では、ボーナス・ステージを単にVAと呼んでおり、同じものに対して国連軍のプロファイラーは、「ヴァーチャル・リアリティーゲーム」という普通名詞を使っている。
私が知っている中で最も英語が達者だった先輩が(私だけではなく、周囲も同じ評価をしていました)、あるとき「英語は奥が深い。難しい。」と言ったのを覚えている。そんな訳でその深みにはまるべく久々に英和辞典を取り出してみた。通常、仮想現実などと訳される今日のタイトルを再考するためだ。何の役にも立つまい。
まずは「virtual」より。仮想現実というと何だかニセモノみたいで、実際、VAもニセモノ現実なのだが、こちらは我が家の辞書に載っている二つ目の語義、「虚」の意味である。陽炎は虚像であるというような使い方をするときに用いる。しかし一つ目の意味は、「事実上の、実質的な」となっており、ニセモノとか嘘と言った語感ではない。
一例を挙げると、GNPや消費者物価には名目と実質があるが、むしろ統計の世界では「実質」こそホンモノというか、こちらのほうが意味があるように使われる。もっとも、「ヴァーチャル・リアリティーゲーム」のほうは、明らかに事実でも実質でもないほうの意味だ。このような二義性は、もう一つの「reality」にもある。やっぱり奥が深い。
辞書では「reality」にも二つの意味を載せていて、一つ目が現実、実在、本体、真実と並んでいて、まあ一応、手ごたえのあるイメージであって良い意味らしい。形容詞「real」の名詞形であり、「リア充」のリアだ。リアカーのリアは別。さて、もう一つの意味は、「実物そっくり、迫真性」と書かれている。つまり、どちらだと訊かれたら、ニセモノのほうなのだ。
日本人が使うカタカナの「リアリティー」は、後者のほうが一般的かもしれない。第18集でケンヂが長髪の「悪」の自慢話に対して、「リアリティーねえわ」と極めて低い評価を与えているが、このリアリティーがその意味だな。現実味に欠けるとか、真に迫ってはいないなどということである。別のところでケンヂはVAを「現実のようで現実じゃねえ」と言っているが、これはリアリティーという言葉が示す一方の事情を上手く言い表している。
本論は以上ですが、これだけでは辞書の引用だけで終わってしまうので、ラカンについて触れる。私は精神科医でも精神分析論者でもないし、ラカンを専門的に勉強したこともないので、浅薄な解釈に過ぎないことを最初にお断りします。きちんと学びたいお方は、きちんとした本を読んでいただきたいし、きちんと勉強済みの方は厳しく指摘さなることなく読み流してください。
ラカンによると世の中は三つの「界」によって出来上がっているらしい。ただし、そのうちどれか一つを取り出してみることができるようなものではなく、ごっちゃになっているというと乱暴かもしれないが、世界の三つの側面を表しているみたい(以下、参考文献は「生き延びるためのラカン」斎藤環著。引用ではないから間違いがあったら私の責任です)。
その一つが「現実界」なのだが、これが上記の辞書的な意味での「ホンモノ」でもなければ、「ホンモノらしいニセモノ」でもない。現実に存在しているのだが、私たちには見ることも聞くこともできない。こんなこと、よくまあ生涯をかけて考えたり、書いたりできるものだ。
二つ目が「想像界」で、イメージの世界。これが多分、私たちが無造作に現実と呼んでいるものらしいのだ。実際、同じ出来事を同時に同じ場所で見聞きしても、私と他者とでは違う受け止め方をするし、違う意味づけをする。当たり前といえば当たり前なのだが、これを意識せずにみんな同じ現実の中で生きていると頭から決め込んでいるので、往々にして話が合わず、分からず屋は相手の方だというような衝突が起きる。
三つ目が私には難解で「象徴界」といい、言葉だけでできている何の意味もないものだそうだ。私なりに身の回りで比喩に使えそうなものを考えてみた。このブログ、背景が緑色だが、私がどこからか緑色をコピーしてペーストしたのではない。コンピュータの言語(キーボードに並んでいる文字・記号・数字)で書かれた情報にすぎない。言葉はコンテクストというその並べ方の作業により、ようやく他者と共有できる意味を持つ。
例えば、ときどき小欄では歌詞を引用して色を着けているが、この最初の作業の結果をみると、「color#:」のあとに文字や数字が幾つか並んでいるが、「green」とか「red」とは書いておらず、幾ら眺めていても緑色や赤色は浮かんでこない。もう少し別の操作をして初めて緑や赤の活字になる。上記の想像界にからめていえば、私は緑色が好きだから背景に使っているのだが、緑が嫌いな人は見た瞬間に閉じたくなるサイトだろう。元の現実界では同一のものなのに。
映画「マトリックス」の時代設定をご記憶であろうか。あれは現実界と想像界が完全に分離されており、現実界を知らない「健全」な人々は想像界だけで満足して生きている。からくりを知った主人公は、象徴界(と言っていいかな)から情報をくみ取りつつ、MATRIXという名のバーチャル・リアリティを舞台として戦いを始めることになる、と勝手に解釈して遊んでいる。小説「ループ」も似たような発想があった。怖いのだ、現実のようで現実じゃねえものは。
ラカンはこれらの概念を単独で扱っているのではなく、彼の思想において他の諸概念と関連付けながら世界観を語る。したがって、これだけ取り出してこんな風に書いただけでは、ポートレートを拝見する限り見るからに怖い感じのラカンさんに怒鳴られそうだが、もうこの世にはいらっしゃらない。
ともあれ、ラカンには他にも興味深い概念がある。例えば、「欲望」とは全て人からもらった(押し付けられた)欲望であるらしい。その典型が、一過性のブームだろう。みんなが欲しがるから欲しくなる。
かつて「おいしい生活」の次に、糸井重里が西武グループのために作ったコピーで「ほしいものが、ほしいわ」というのがありました。この漫画では、「みんな信じたいものが欲しいんだよ」というのが、”ともだち”の欲望論であった。ラカン、読んだのかな。
ピーター・ドラッカーは「コンピューターへの欲求は、それが手に入るようになって初めて生まれた」と書いている。潜在的な欲求(もっと便利だといいなとか、癒されたいなとか)が、有効需要(実際に商品・サービスが目に見える状態)に触れて変質すると、初めて市場が生まれる。マネージメントも読んだのかな。
「自己愛」というのもある。単なるナルシシズムと違うらしい。すべての愛は自己愛なのだそうだ。これは、「結局、誰もが自分だけ可愛いのよ」というような、諦めや怒りの感情とともに吐き出される常套句のことではない。
つまり「結局」ではなくて始めから全員、どの愛もすべて自己愛だという徹底したものだ。これを傷つけられると、発端や原因が自分の非であっても、可愛さ余って憎さ百倍ということになるのだろうか。そういや片思いは甘美だもんねえ。
フクベエはナルシストだと昔、書いたが、カツマタ君はどうだろう。マスク姿の彼は自己愛の塊のような印象がある。中学校の屋上の場面、最期の円盤事故死の場面、いずれにしてもケンヂを最初(すなわちバッヂの事件)から最後まで憎んでいたという態度だろうか。そうだとしたら、「あそびましょー」なんて冗談でも言うまいと思うのだが。案外、ケンヂが好きだったのかもしれないと思った。
(この稿おわり)
大型連休のころからメダカは卵を産み始めます。
(2015年5月11日撮影)
Love is real, real is love.
Love is you, you and me.
”Love” John Lennon "color:#FF3366;"
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