おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

Consider this.  (第928回)

 そんなことは去年までは全く無かったのに、今年に入ってから稀にですが、「ブログ、読んでます」と声をかけられる事件が発生して弱っている。もちろん、実名で書いているし、これだけ各時代のキーワードや固有名詞を書き入れているから、文章量が増えればいつかどこかで検索の網に引っ掛かるのは承知のうえで進めております。

 されど過去3年間、家族以外の人からは何の音沙汰もなかったため、やはり油断して段々と個人的な事柄や過激な意見まで書き始めたら、この有り様だ。今さら昔の記事を全て消去するのも癪だし、読み直しや書き直しも無理だから、このまま続ける。

 ただし、五十も過ぎて漫画の感想ばっかり書いていると思われるのも気に入らないので(実際そうなんだが)、たまには、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないくらいのことを言おう。二回分の予定。


 本日のタイトルは、ちょうど私が商用で駐在していた前後、すなわち、1980年代から90年代にかけてのアメリカで人気を博したロック・バンドの「R.E.M.」が、「さんふらんしすこ」に私が住んでいたときに発表したシングル、”Losing My Religion”の歌詞から拾ったものだ。夢も何も無い歌。

 日々の暮らしの中で、「これは、何かおかしくないか」と感じるときに、この「Consider this, consider this」や、ボブ・ディランの「How does it feel?」というリフレインが頭の中に木霊することがある。よく考えろ、今どんな気持ちだと。やっかいな成分表示を背負ったものである。今回の「何かおかしくないか」は、大きく出ることにして集団的自衛権憲法である。

 もとより私は政治家でも軍人でも憲法学者でもないが、では口をはさんでいけないということではあるまい? 素人は黙っていろとか、文句があるなら自分でやってみろというのは、そういう出来事も個別には無いことはないだろうが、一般論としては非常に危険な口封じである。民主主義というのは、他人様の生活に口出しすることでしょう。


 この件の本論は次回になりそうで、今日のところは前触れみたいなものだ。当初の希望では2月11日に書こうとした内容です。されど当時は多忙と体調不良で大延期になってしまったのだが仕方が無い。さて、小学生のとき授業で、2月11日の「建国記念の日」という名称に「の」が入っているのは、本当の建国日ではないからだと担任がクラス中に語った。あまりの意味の分からなさに、今でも鮮明に記憶している。

 そのついでに先生は、日の丸と君が代は日本の国旗・国家ではないとも仰った。これは面白いと感じ、さっそく帰宅して親に日本の国旗と国歌を知っているかと訊いたところ、「親をバカにするもんじゃない」という返事しか来なかった。さすがは、このあたり1960年代の大人であり、例えばケンヂのお母ちゃんは当方にとって、とても他人とは思えないのである。


 やはり自分の親だけあって、わざわざバカにする必要もないなと思ったのは若気の至りで、何も成文法で制定されなければ国の歌でも旗でもないという屁理屈は、庶民感覚からかけ離れている。そんなこと言うなら、近代以前の国旗やら軍旗やらは、みんな非公式か。現代において世界中で国の歌や旗が尊重されているのは、たいてい遠い昔からの歴史の重みがあるからです。でも我が国では法律ができた。1999年。日本がおかしくなり始めたのは漫画の世界だけではないかもしれない。

 建国記念の日は、かつて紀元節と呼んだ。遠い昔の「サザエさん」のコミックスで、カツオが「きげんぶし」と読み、波平に叱られていたのを覚えている。ともあれ宗教や信条の自由を蹂躙されているわけではないのだから、主権在民の代表者の一人として、先生も年に一度はこの国の遠い昔に思いをはせてもいいではないかと思う。サラダ記念日だって毎年、来るのだ。


 明治三十四年二月十一日。正岡子規は死の前年の病床にあって、勤務先が発行している新聞「日本」の記事を書いていた。それが手元の岩波文庫「墨汁一滴」に収録されている。子規は大文豪として寄稿しているのではない。勤務先の(病気で在宅勤務だが)新聞日本社の一労働者として、賃金に見合う仕事の一環で執筆していたのだ。

 この時期の彼は、すでに筆を手にするのも難儀するほど体力が衰え、前月末の1月31日には、もはや我が望みもこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したりと書いている。しかし、こういう病状も悲観も、子規は暗く縁取ることなく文学論と同じように天下に公表し続けた。


 明治三十四年は西暦1901年にあたる。20世紀が始まった年だ。翌年に日英同盟と子規の死、その二年後に日露戦争が始まる。戦争が戦闘行為と戦時外交の組み合わせで戦うものならば、日英同盟がこの戦争における外交の最大の成果であったことを否定する人はまずおるまい。逆に言うと、戦時に役立たない戦争関連の外交は無意味である。

 子規はこの日、十二年前の紀元節を思い出しながら随筆を書き残している。そのとき、彼はまだ書生であった。記事は「朝起きて見れば一面の銀世界」という清冽な書き出しで始まる。東京は二月によく雪が降る。明治政府は西南の役のまえに早くも新暦を導入していた。万事、遅れを取るのが嫌いなノボさんは、ご学友に遅れじと早速、高等中学の運動場に急いだ。


 しかし、敵もさるもの。校庭には既に「祝憲法発布」「帝國万歳」などと書かれた旗や紅白の吹き流しが北風に吹かれている。大日本帝国憲法神武天皇の御即位にあやかり、明治二十二年(1889年)の紀元節に施行されたのだ。子規もそれを知っていたからこそ出かけたのだろうが、さては寝坊したかな。

 帰り道に彼は、この日に創刊号が発売された新聞「日本」の第一号を見かけて買った。陸羯南は立憲政治の初日に、言論の自由をぶつけてきたのだ。後年、何度となく発禁処分を受けた「日本」の創刊号は、子規の記憶によると、その表紙に拙い三種の神器の絵が描かれていたらしい。


 さすがの子規も、よもや十二年後に自分がその新聞社の記者になり、足も萎えて歩けぬ程の不治の病を患いながら、この日の思い出を綴る事になるとは思わなかったろう。この文章を、彼はこういうふうに締めくくっている。帝国が彼の不安どおりの世の中になったとき、事態は取り返しのつかないことになっていた。

 「十二年の歳月は甚だ短きにもあらず『日本』はいよいよ健全にして我は虚しく足なへとぞなりける。その時生れ出たる憲法は果して能く歩行し得るや否や。(二月二十一日)」



(この項おわり)






拙宅、早朝のてっせん
(2015年4月29日、初代象徴天皇のお誕生日に撮影)






おまけは近所の花壇
(2015月4月28日撮影)







 I thought that I heard you laughing.
 I thought that I heard you sing.
 I think I thought I saw you try.

 But that was just a dream.
 Try, cry, why try?
 That was just a dream.
 Just a dream, just a dream, dream...

    ''Losing My Religion''    -   R.E.M.
























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