おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

目的と手段  (第1899回)

 池上彰超訳 日本国憲法」(新潮新書)という本がある。2015年4月20日発行。池上さんは、私の子供が子供だったころ「週刊こどもニュース」のお父さんをやっていて、日曜日の夕方だけは休もうと決めていたころだったため、ときどき観ていた。NHKがお長いだけあって、あまり強い意見はいわない。

 つまりコメンテーターとやらではなく、やっぱり役割は親や先生なのだが、世の専門家と言われる(称する)人たちが、難しいことを解説しようとして、更に分かりにくく(あるいは間違って)伝えがちなのに反して、みんなが分かっているつもりになっているのに、いざ説明しようとすると口ごもるようなことを整理する技にかけては当代一流だ。


 そういう訳で、「超訳」という私の嫌いな言葉が使われているが、これは多分、出版社・編集者のご意向であろうということで横に措き、買って読んでみた。まず構成をみると、憲法の「超訳」だけではない。

 目次をみれば歴然としているが、要すれば次の三部構成です(以下の言葉遣いは、私の判断)。(1)日本国憲法の詳説、(2)集団的自衛権の問題、(3)北朝鮮・中国・アメリカ合衆国憲法の概説。


 私はもちろん(1)を読みたくて買ったのだが、これに続く(2)と(3)は、テーマをみただけで、当時の極めて時事的な問題を取り扱っていることがわかる。そういう側面を反映させつつ、この時期に憲法の本を書いたということだ。

 面白いのが中国と北朝鮮憲法の抜粋で、北朝鮮の対外政策の理念が「自由・平和・親善」というのもお笑いだが、中国の憲法言論の自由があるというのも驚異的な冗談で、池上さんは「憲法を守ると逮捕される国」と書いている。逮捕で済めばよいが。アメリ憲法の修正条項の説明が丁寧で分かりやすい。


 うしろから読んでいる。その前に「集団的自衛権日本国憲法」という章がある。この本この章が書かれた時期・政治的段階が重要だ。それまで政府が一貫して述べてきた集団的自衛権の扱いについては、「持っているが使えない」という姿勢だったが、これを第二次安倍内閣閣議決定でひっくり返した。しかし同書の出版は、まだ関連する法律ができていない時点である。

 二点、問題がある。まず、この内閣の閣議決定は、「そもそも」の辞書的な意味を創作したり、首相夫人は私人であるという意味不明のメッセージを発信したりして、閣議決定の「重さ」が地に墜ちたという、歴史的な政権であること。もう一つは、池上彰がこう書いている。


 安倍内閣集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をしましたが、これですぐに武力行使できるようになるわけではありません。日本は法治国家武力行使するためには、そのための根拠となる法律が必要です。安倍政権は、関係する多数の法律の改正案を作成し、二○一五年中に国会に提出する予定です。
 この法改正が実現して初めて、武力行使は可能になります。今後も議論が続くのです。

 2015年4月に発行された本にこう書いてあり、同年9月に安全保障関連法は成立した。緊急出版だったのだ。翌年すでに施行されているから、武力行使は可能になりました。今のNHKでこんなことを言ったり書いたりしたら、番組を「卒業」できる。早く辞めて良うござんした。では、(1)の主論、日本国憲法に進もう。第一条と第九条を選ぶ。


 第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
 このブログでは改正草案との比較を主にやってきたので、「象徴」と「元首」に着目して終わったが、本書の着眼点は、ちがう。

 今の天皇の地位は、神の子孫だからではなく日本国民の総意にもとづいている、つまり国民がみんな支持しているから、この地位にいるということです。

 しかし相変わらず、神武天皇は実在したと断言する政治家や(金八の教育ミスだろう)、海の日を固定しろとか、建国記念の日紀元節に戻せとか、頑張っている人たちもいる。この人たちは「国民の総意」の外にいると位置づけるならば、彼らが好みそうな言葉で呼べば、反日・非国民になってしまわないか心配です。


 第九条の「超訳」は、両論併記で終わっている。「すべての戦争を放棄した」と解釈するケースと、「自衛権は保持した」とするケ―ス。憲法が今のままである限り、永遠の議論になりそうな話柄だ。

 よく知られた国会答弁も引用されている。共産党野坂参三議員と、吉田茂首相のやり取り。吉田の言う通りではないか。「てにをは」まで議事録の原文通りかどうかまでは知らないが、池上さんの本では、「近年の戦争の多くは国家を防衛するための名目で行われるので、正当防衛権を認めることは戦争を誘発することになる」。近年どころか、キムとトランプが、ただいま危ない実験中。


 いまや、政権与党は、まさになりふり構わずで改憲の議論と、働き方改革の推進を行っている。良し悪しはともかく、共通点ははっきりしている。どちらも経済成長のためだ。その恩恵を誰が享受し、その負担を誰が担うのか、この点も言われなくても、概ね見当がつくし、ここでも何度か書いてきた。おこぼれは、当家には来そうもない。

 第九条については、議論の大筋としては、自衛隊を第三項(あるいは第二項の二)として追加・明記するというものと、これとは別に、第二項を削除せよというものが目立つ。第二項、削除していいのか。芦田さんがその意図について何といおうと私には関係ない。


 第二項の冒頭のいわゆる芦田修正、「前項の目的を達するため」とはっきり書いたことにより、これは国語の話だが、第一項が目的であり、第二項が手段である。目的だけ残して、手段の規定を削除した場合、戦争を放棄するためには、何をやっても憲法に触れないと、いま腹の中で考えていることを口に出して言い出す人たちが増殖するに違いないと思う。

 私は沖縄の海が好きで(泳ぐのも魚を食べるのも、ついでに泡盛を飲むのも)、宮古島石垣島は何度も行っているのだが、今ここにミサイル基地が造られつつあり、早ければ本年度内にミサイルを配備すると報道されている。私は怒っている。「自衛」と称して先に相手を叩き潰せば、字面の上では「交戦」にならないということですか。




(おわり)





宮古島で会った海亀  (2015年7月18日撮影)




































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