おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

伏線 (20世紀少年 第890回)

 今回の私は大まじめですが、結果的に主に若い人の言葉づかいを批判することになるので、そういう老いの繰り言のようなものがお嫌いな方はご遠慮ください。さらにいうと「あまちゃん」とその作家がお好きな人は読まないでください。

 下巻の最後まで感想文を書いてから、長いこと楽しみにしてきた過去のネット情報をちょっと読んでみた。インターネットも便利なものだな。当時の生の情報がけっこう残っている。


 雑誌スピリッツの連載は2007年で終わっているのだが、その当時の読者の意見が今もそのまま読める。最終話が完結した時点での批判的なコメントは、おおむね次のようなものが多かったように感じた。

 (1) 伏線が回収されていない。
 (2) カツマタって誰だ。そんなのを犯人にするな(そもそも、本当にカツマタ君なのかという問題提起もある)。
 (3) 長いこと引っ張ってきた割に、爽快な終わり方ではない。


 私くらい長く生きて小説や漫画や映画をたくさん読んだり観たりしてきた者にとって、特に(3)の感想は一般論として良く分かる。司馬遼太郎の小説でも、手塚治虫の漫画でも、黒澤明の映画でも、私にとってつまらんものはつまらんし、長編は徒労感が残る。

 金返せと言いたい気持ちも分からんでもないが、たくさん読めば払った金以上の楽しみを得ることも多いので(特に、相性の良い作家を選ぶようになれば)、全体的にみれば充分リターンを得ていると思えばいい。全部楽しませろというのは、さすがに無理な相談だ。

 
 それに亀の甲より歳の功で、ガッカリすることにも慣れてくる。ついでに言えば、私のこのブログも(3)を言われると返す言葉がない。関連して(2)についても、私とて最初に読み終えたときは「そんなのありか」と思ったし、この感想文の最終段階でも頑張ったが、上手くまとまらなかった。

 これについては自分に言い聞かせるがごとく、何回か「これはミステリではないのだから」と書いてきた。それはそれで今もそう思うが、他方で、”ともだち”の正体の解明に至る第11集から第12集にかけてのドライブ感は見事なもので、多くの読者が最後もそれと同様の展開を期待するのは当然のことだと思う。


 私はこの連載時のほとんどの期間は海外にいて、帰国後に全て単行本で読んだから余裕で感想などを書き散らすことができたのだが、毎週スピリッツを買って読んでいた人たちは、否が応にも期待度が高まっただろう。期待外れと感じる人が出ても仕方がないと思う。

 ただし、ネットで口汚くののしるのは良くない。そんなことで鬱憤が晴れたりはしないだろう。気に入らない作品はさっさと人にあげるなり処分するなりして、次に行けばよいのだ。本来は消費財なのだから。保存版に出会えたら幸運なのだから。


 今日の主題はタイトルにあるとおり、(1)の伏線の回収についてである。「20世紀少年」に限らず、この表現が良く目に留まるようになったので気になっているのだ。

 小欄でもかつて、「そもそも伏線は回収するものではない」と書いた覚えがある。ただし、それだけ言いっぱなしだったから言葉不足なので補足したくなった。他人様を批判する形になるので、まずは例によって慎重に言葉の辞書的意味を確認する。


 広辞苑第六版より。ふく-せん【伏線】1)小説・戯曲・詩などで、後の方で述べる事柄をあらかじめ前の方でほのめかしておくもの。2)後の事の準備として、前もってひそかに設けておくもの。「−を敷く」。

 1)が本来の意味で、2)が応用編だろう。語義の文中に漫画は入っていないが、上記(1)は辞書の1)の意味そのものだろう。この説明でいくと、「後の方で述べ」られて初めて、あれが伏線だったと分かるものではなければ伏線とは言えない。だから「回収されない」伏線など語義的にあり得ない。


 伏線の名手と言えばヒッチコックであった。それでも気付かなければ、それまでだ。それが伏線であり、基本的にあってもなくても料理の味を損なわない程度の調味料であって、気付いて面白かったらラッキー。「これは伏線だ」と読者が決めつけるものではない。まして回収されないと怒るのは筋違いであると思います。

 そもそもこの「伏線の回収」という言葉づかい、どこのだれが始めたのか知らないが、私が若い時分には無かった。廃品回収という言葉はあった。印象として要らないものや放置できないものを集めること(リコール)であって、伏線を回収の目的語に使うのには強い違和感を覚える。


 何か月か前に雑誌のエッセイで宮藤官九郎というお方が、喫茶店かどこかで執筆作業か何かをしていたら近くの席のお客が「クドカンの作品は必ず伏線が回収されるんだよな」と語っていたと、嬉しそうに書いておられた。

 私は「あまちゃん」とやらを一秒も観ていないほどなので、この作家(ですか?)には関心がないし、貶めようとも思わない。ただ単にプロの物書きが、こういう表現を平気で使うから日本語が汚れて困るということを強調します。


 そんなのお前の好き嫌いに過ぎないと言われたら、それまでかもしれない。それでも言うが、長いこと使って来た言葉が違う意味で定着してしまうというのは、大変きついストレスなのだ。若い人たちも私くらいの歳になれば分かるだろう。

 それに歳を重ねると柔軟性がなくなってくるので、こちらから合わせようという気力も失くす。やむなく距離を置くしかない。クドカンという人の文章はそれ以降、別に恨みも何もないけれど一切読んでいない。全く困らない。そんなにヒマでもないし、心も広くないのだ。

 
 漫画「20世紀少年」において「回収されなかった伏線」として、あちこちで槍玉に上げられているのが1971年8月31日の「夜の理科室事件での5人目」である。あれは確かに尻切れトンボであるが、上記の通りで私に言わせれば伏線にすらなっていない。

 あの日は間違いなくフクベエの周辺を万丈目がウロウロしている。なんせ金のなる木の候補を見つけたのだ。実際、時間がかかったが別の意味で金になった。だから平凡極まりない読み方だが、万丈目と考えて一切、矛盾はないはずである。

 もっとも第1集の絵では子供のように見えるので(下半身だけだが他の子と同じくらいの丈)、小欄ではナショナルキッドではないかと書いた覚えもあるのだが...。いずれまた読み返そうか。ドンキーが学校の廊下で気配に気づいたのは万丈目で間違いあるまい。


 かくして(1)について冷たい言い方をすれば、勝手に期待して勝手にガッカリして、その憂さ晴らしを作者に対しネットで匿名でしないでくれということです。無理を承知でお願いする。楽しんだ読者に対して失礼です。

 かつて、小中学校において独特の雰囲気を醸し出していた理科室と放送室。大事な点は「20世紀少年」においてそれらが秘密基地と並んで、”ともだち”誕生の舞台の一つになったのだ。5人目は今更どうでもよろしい。私はそんな風に感じながらこの漫画を楽しんでいる。


 上段の件で補足すれば、夜の理科室行きに際してモンちゃんが、がんばってかき集めても四人しか集まらなかったのは、大雑把に云うなら秘密基地が消滅し、遊び仲間の結束も緩くなっていたからだ。年齢的にもみんな大人になり始めていたのだ。理科室の先客を除けば。

 ここで怪しい感じが残るのは、首吊り坂と異なり、夜の理科室内での出来事はドンキーが語らず、山根も中途半端な説明に終わり、結局クライマックスの首吊りバカについては、ヴァーチャル・アトラクションの情報と”ともだち”の脳内にしかないのだ。

 もしもドンキーが本当の「悪」をそこに見て、翌日の始業式にも行けなくなりそうなくらいショックを受けたのであれば、なぜ1997年にそのことを思い出さなかったのか。フクベエと目玉マークが結びつかなかったのだろうか。謎である。



(この稿おわり)





夕立そこまで来ている。
(2014年6月13日撮影)







 夕立そこまで来ている
 雷ゴロゴロピカピカ
 情け容赦ないみたいだ
 誰もが一目散へとどこかへ走る
 カエルはうれし鳴きをしてるうう

       「夕立」 井上陽水






(ご参考) 
本家本元のケロヨンは「バハハーイ」と鳴く。
野暮を申せば、ヒキガエルは緑色ではない。

































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