おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

同い年くらいの友人 (20世紀少年 第683回)

 勿体なくもキリコに手打ちソバをほめてもらったケロヨンは、死なないでくれよと泣いている。さらに「カンナにも食べさせてあげて」という母の声を聞いて、彼は「当たり前だ、みんなでソバパーティーだ、ちくしょお」と吠えている。昔の年寄はクシャミをしたあとで、よく「ちくしょう」とフォローしていたものだが、あれは何のおまじないだろうか。アメリカ人は「神のお恵みを」と声をかける。風邪を引かないように。うつされないように。

 キリコの咳は収まったが会話が途絶えてしまったので、代わってマルオが質問を始めている。最初は重要事項の確認で、カンナはキリコと”ともだち”の間に生まれた子。その”ともだち”の正体はというマルオの問いに、改めてキリコは「フクベエよ」と断言している。マルオの更問(お役所用語。さらとい)は、「じゃあ今現在の”ともだち”は」という事態の核心に迫る質問であった。


 キリコは黙っている。マルオはやむなく「フクベエじゃないんですね?」と念を押すように尋ねている。まだ半信半疑なのだろう。キリコはうなずいた。マルオは三年前にオッチョが理科室で間違いなくフクベエが死んだことを確認したという別の証拠も持ち出したうえで、今いるあの”ともだち”は誰なんですと訊いた。キリコの返事は端的で「わからない」。残念。だが分かっていれば、とうに話しているわいな。

 マルオは質問の切り口を変えて、「フクベエにかわって、”ともだち”になりすます人間は!!」とミリオン・ダラー・クエスチョン。キリコはいったん目を伏せて記憶をたどり、”ともだち”のサークルがまだ初期で小さかったころ、夫が誰かによく電話していたことを思い出している。男たちは万丈目かと訊くが、キリコの感覚では、同い年くらいの友人と話しているような感じだったという。


 さてと。同い年なら山根やサダキヨの可能性がある。とはいえ山根はこの当時、フクベエやキリコと一緒にウィルスやワクチンの研究をしていたころだと思うので、フクベエが自宅から盛んに電話する必要などないのではなかろうか。しかもキリコの記憶は初期のサークル活動に結びついているので、電話が自分たちの仕事の話ではないことを彼女は感じていていたはずだ。

 サダキヨはどうか。彼はその半生において、フクベエに「あーしろこーしろ」と言われてきたわけだが、サークル活動や友民党に参加していた形跡が実は無い。モンちゃんの一件を除けば、”ともだち”とともに悪さをした描写もない。それにたぶん大学を出てから彼は高校の先生をやっているのであり、昼間からサークル活動に熱中できる立場でもあるまい。容疑者はキリコの知らない誰かなのだ。


 話しすぎたか再び咳き込んだキリコは、心配する男二人に向かって「それより、あのコは誰?」と意表を突く質問を投げかけてきた。フクベエの話をしているうちに、彼女はもっと昔の記憶にたどり着いたのだ。あのコは、彼らが小学生のころにお面をかぶっていたという。「サダキヨ?」とマルオ。「そう」と一旦同意したキリコだが、「でも、あのコは誰?」と執着している。

 サダキヨの思い出。「ミジンコの勉強しているんだ」と言った彼。あなたも興味ある?と訊かれて、いかにも興味さなそうに「うん、まあね」と答えた。キリコは「別にいいんだけどさ、お面くらいとりなさいよ」と姉さんぶっている。このセリフは映画では確かケンヂが使っていた。サダキヨはお面を取っている。命令されたのでちょっと不機嫌そうだが、頬を赤らめて間違いなくサダキヨだ。久しぶり。


 キリコはようやく普通の表情に戻り、相手の名を尋ねた。少年は「佐田清志。みんなサダキヨって呼ぶんだ」と目を合わせずに答えている。大人になってからは「マイ・ネーム・イズ」と付け加えたり、女子高生相手に不気味な薄笑いをしたりと、もう少し性根が座るのだが、ここでは恥ずかしがりやのサダキヨであった。「ふーん」とキリコも言った。

 「サダ君か」と付け加えながら、ふと彼女は左前方を見やっている。先ほど通り過ぎたはずの感じの悪い少年たちが、公園の片隅にたむろしていた。真ん中のフクベエと左隣の山根は、花壇の鉄柵に腰かけて何やら談笑中。フクベエの右隣には同じ年くらいのコが立っていて、その様子をながめている。それを見ているキリコの横で、サダキヨがお面をかぶりなおしている。サダキヨではない誰かがナショナル・キッドのお面をつけてフクベエの横に立っていたのだ。



(この稿おわり)




シャガも咲きました。 (2013年3月30日、世田谷にて撮影)





































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