おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

超人 (20世紀少年 第601回)

 第18集第10話の「知ってはいけないもの」は、初期のサークル活動において、ステージに立っている”ともだち”の「僕達は超人になれるんだ。」というご宣託から始まっている。「知ってはいけないもの」の正体は、最後のほうで万丈目が語る予定。

 私はいま故あってニーチェの哲学を真面目に勉強しているのだが、ニーチェは超人を求めているものの、先生によると「超人になれる」とは言っていないし、自分を超人とも思っていないらしい。それでは救いようがないではないかと人はいうかもしれないが、さようニーチェは哲学者であって宗教家ではなく、誰かを救うつもりではなくて真実と信ずるものを語っているのみである。

 だが彼には文学的な才能があり、数多くの箴言は力強い詩のように迫力がある。それに酔って元気になる人も世間には多いようで、都合の良さそうな文章だけ寄せ集めた本が売れているのもそのためだろう。それは読み手の自由である。だが、酔いはいずれ冷める。


 超人は英語に直訳すればスーパーマンだ。「スーパーマン」といえば古いアメリカのコミックスであり、私が大学1年生のときに映画化されて大ヒットした。父親がマーロン・ブランドで、悪役がジーン・ハックマン。新聞記者のクラーク・ケントは本当は宇宙人なのだ。

 今でもあるかどうか知らないが、私がロサンゼルスで働いていたころ、同市の庁舎には古くて白いタワーが残っていた。スーパーマンはなぜかあれが好きで、周囲をひらひら舞っていたものである。ところで私の記憶では、このスーパーマンが人類を超えている部分というと、空を飛べることだけしか思い浮かばない。


 どうやら”ともだち”も同じ程度で良いと考えたらしく、奇跡といえば宙に浮くだけであり、それに加えて自作自演の予言という二つのインチキから構成されていると言ってよかろう。あとはゴタクを並べているだけだ。相手が勝手に感動してくれるのだから楽ちんである。「完璧になろうとして焦っちゃだめだよ。なぜなら、完璧になると宇宙になっちゃうから。」などと説教しており、万丈目すら呆れている。

 かつて私は、特に最初のほうの巻に出てくる”ともだち”のステージなどでの発言を集めて、”ともだち”の教理みたいなものを整理しようとしたのだが諦めた。万丈目のいうとおり、訳の分からないことだけで、まとまりがない。ワン・フレーズ・ポリティックスのはしりみたいなものだな。


 舞台の袖でワイヤーの準備をしているのは、若き日のエンジニア、西岡である。彼と万丈目の二人で、合図を出した”ともだち”を天上方向に吊りあげている。場末のマジックショーのほうがマシとけなしていた万丈目だが、驚いたことに観衆は嬉々としてこの「奇跡」を見つめている。

 万丈目の心中に”ともだち”が語っていたらしい言葉がよみがえっている。「なんでもいいんだよ。彼らはなんだっていいから、信じたいものがほしいんだよ」。振り向けば西岡までが「すごい。ホントに浮いてる」と陶然とした面持ちである。醒めているのは万丈目ひとり。おそるべきサークル活動の展開であった。


 フクベエや私のように、1980年ごろ二十歳前後だった世代は、社会に出たころマスコミから新人類という呼称を付けられたのだが、1995年以降しばらくの間、「オウム世代」とまで呼ばれた。トップクラスの幹部やサリン事件の実行犯など死刑判決を受けた者の半分以上が、われら昭和30年代生まれだったからである。

 中心人物の一人に、すでに刑期を終えて放免されたようだが、弁護士がいたのをご記憶だろうか。彼は私よりも一歳上で、同じ大学であった。在校中に司法試験に受かり、司法試験史上だったか大学史上だったか忘れたが、史上最年少合格ということで大ニュースになった。まさか、彼の名をあんな形で再び耳にしようとは。


 なぜオウムがわれわれの世代の一部の者を、あれほど強烈に魅了し、無謀な行動に走らせたのか、納得のいく説明に出会ったことがない。一番まともそうな意見は、ああいうことはいつでもどこでも起きうるというものだが、私の人生はいつでもどこでも起きうるものではないので、一般論だけでは物足りない。

 フクベエや山根のような者もいれば、ケンヂやオッチョのような者もいるのだという説明も同様である。何かしら世情、時代といったものに関わりがあるに違いないと思っているのだが、世間はもうほとんどオウムに関心を示さない。長く逃亡していた3人が逮捕されたが、興味本位の報道ばかりである。


 1965年ごろを境として、日本の地縁・血縁は急速に薄れ始めたという社会学者か誰かの意見を昨年聴いた。うちは田舎だったので時間差があるが、確かに1960年代と1970年代とでは、物質文明から親戚近所との付き合いにいたるまで、周囲は別世界のように変わってしまったという強い印象を持っている。

 そういう環境変化の中で育った青少年の精神状態が不安定になりかねないという可能性はあるかもしれないが、でも親の世代の戦争体験とか、現代の就職や結婚まで困難極まるという状況と比べて、私の年代が格別の苦労をしているとも思えない。だが、現実としてオウムがあり、今ここで”ともだち”が台頭している。

 なぜか。答えは出そうもない。答えは風に吹かれているのかもしれない。”ともだち”の「信じたいものがほしいんだよ」という言葉は興味深い。「信じるものがほしい」とは少しニュアンスが違う。


 ところで、この箇所において宙に浮いている”ともだち”がフクベエとは限らない。状況証拠しかないが、サークル活動を始めたころ、フクベエが同年代の誰かとしきりに電話で話していたとキリコが後に述懐しているし、チョーさんは”ともだち”が複数いた可能性を突き止めている。前に述べたように、どうもこの目玉覆面は別の男のような気がする。

 さて、ここまで聴いて、カンナが万丈目に対して怒り出した。あんたたちのインチキはとっくに知っているのだから、早く仲間を返せというのが彼女の要求である。だが、オッチョは同じく万丈目を睨みつけながらも、まだ喧嘩沙汰は早いとみたか、カンナの激発を押しとどめている。次のオッチョと万丈目の会話が興味深い。



(この稿おわり)





すっかり近代都市風になった静岡市街と地元の名産ミカンの木 
(2013年1月3日撮影)











































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