おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ひとりぼっちのあいつ (20世紀少年 第850回)

 「奴は俺達の魂の友だ」。「俺達は泥棒団みたいに結束が固いんだ」。先日、恋人を失くしたミック・ジャガーに寄せて、キース・リチャーズの公式声明文より。ステージが待っている。お客も待っている。

 
 さて。多分もう40年ぐらい前に一回観たっきりの映画「007は二度死ぬ」は、私の知る限り欧米の映画会社が初めて本格的に日本でロケをやった作品ではないかと思う。1967年とあるから、ようやく東京オリンピックのご利益で先進国らしくなったころだ。ボンド・ガールも初めて日本人から選ばれて大騒ぎ。

 コイズミも知らなかったボンド・ガールとは、寅さん映画ならマドンナに当たり、ウルトラマンなら怪獣に相当する。手を変え品を変えて次々登場し、ヒーローを引き立てる役割を持つ。シリーズものの宿命として、主演と同じくらいの魅力がなければ務まらない。


 007は二度死ぬというのも意味がよく分からないタイトルであるが、この映画でボンド・カーに選ばれたトヨタ2000GTに乗ってご満悦だったサダキヨは、中学生のとき最初に死に、老人ホームの屋上から脱出した後で二度目に死んだのだが、ただいま三回目の生を全う中だからミスタ・ボンドを超えている。

 ともだち博物館や2000GTの車内でサダキヨが語ったところによれば、彼は子供のころ「顔のない少年」であり、「”いない”人間」だったという。この主張はコイズミと関口先生により、あっという間に論駁されて終わるのだが、物語にはもっと深刻な顔のない少年が出てきて、こちらは最後まで顔なしであった。


 かつて第14集でヨシツネとコイズミ、遅れてカンナがヴァーチャル・アトラクションに侵入したとき、”ともだち”の策謀でCGの世界が壊れ始めた。この際、前回の脱出行を思い出して、コイズミは目の前にいたナショナルキッドのお面をはがし、再び絶叫して一人だけ逃げ得た。このとき彼女は何を観たのかは読者に分からない。

 ただし、今さら大人になったサダキヨやフクベエの顔を見たとてそんなに驚かないであろうと思い、私はきっとノッペラボウに違いないと考えた。でも改めて絵を見ると後ろ姿ながら頭髪と耳はある。小泉八雲の「貉」は顔の部品だけがなかったようだが、これでは20世紀少年的なノッペラボウとは言いかねる。なぜならばモデルがテルテル坊主だから、耳も髪もないはずなのだ。

 
 そういう完全無欠のノッペラボウがヴァーチャル・アトラクションに出没し、ケンヂを驚ろかせて喜んでいる。本来、ノッペラボウは自他ともに認めるフクベエの代名詞みたいなものだったのだが、ここでもマネしたのか? でも何故? それにフクベエの秘密をいつどこで知った?

 この少年も生存時の現実世界では、教室の中などでは素顔でいたはずだ。1973年の第四中学校でも、昼休みの廊下でケンヂやヨシツネやユキジと素顔のままですれ違っている生徒と同一人物ということで間違いあるまい。そして顔面が無いはずがない。以下、理屈っぽい文章になるので、お気に障りましたらご容赦ください。


 前々回で申し上げたように、顔とか面とかいう単語は、主に言葉や表情や仕草で情報を伝え合う人間にとって、単なる身体の部位のみを指すものではない。最初から最後まで死んだという噂話でしかその名が語られず、はっきり分かる形で顔を描かれなかった人物とは、つまり、どこの誰でもないようなものだ。

 漫画はまだ少し先が残っているけれど、ケンヂの最後の冒険はミステリーの解決でもないし、カツマタ君にとっての救いでもないし、読者に心の癒しを提供するものでもないし、作者が苦し紛れにひねくりだした幕引きでもないと思う。黙示録や「ゴドーを待ちながら」と同様、解答も解説もない。ボブ・ディランジョン・レノンの多くの曲の歌詞も同様だ。


 作品はいったん作者の手を離れて公表されたら、あとは読者や観客のものである。どう読もうと無視しようと、エンド・ユーザーの勝手である。カツマタ君はイジメられて、ひねくれて、あんな死に方して気の毒だろうか。そう思う人はそう思えばよい。私は違うな。

 もう半世紀以上も生きていたので、いったい何千何百の同級生や同僚やご近所と知り合ったか見当もつかないが、おそらくそのうちの何人かを知らず知らずのうちに傷つけているだろうし、相手は知らないだろうが私も何人かのせいで傷ついている。


 世の中は個人のために出来上がっているのではないから、個人にとって世の中は激烈に不合理、不平等、不条理なものだ。全ての人の心のうちにカツマタ君はいるし、かつて知り合いだった私を忘れている人たちにとって私はカツマタ君にすぎない。

 この漫画から娯楽性すなわちSF的な要素や冒険物の楽しみを取り払ってみれば、残るのは「あとは自分で納得がいくように考えてみたらどうだ」という優れたフィクションが共通して持つ作者の問いかけのみだろう。読み終わってからが始まりだ。


 ビートルズの初期の作品のいくつかには碌でもない邦題が付けられているが、唯一原題と比肩すると私が感じている曲が「ひとりぼっちのあいつ」という日本公演でも歌った歌だ。この歌詞に出てくる孤独や無力感、根拠もない万能感に浸っているのがカツマタ君であり私である。

 まあ、その、感想文なので好き勝手に書き散らしました。他の人がどう感じようと感じまいと、繰り返すが自由である。金払って買ったのに損したと思う人もいるだろう。他で帳尻を合わせてください。誰だってそうしています。矛盾点が多い? いやあ、例えば新約聖書もすごいですよ。



(この稿おわり)







 

  He's a real nowhere man
  Sitting in his nowhere land
  Making all his nowhere plans for nobody


           ”Nowhere Man”   The Beatles








追伸: ジョージ・ハリスンが間奏の最後に鳴らすハーモニクスが好きです。




































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