おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

チョーさんメモを読んでみる 【後半】 (20世紀少年 第831回)

 前回の続きであります。最初の二行がサダキヨ関係であったのに対し、三行目はいきなり「”ともだち”は複数?」という次元の違う話に跳んでいる。サダキヨ関係の捜査をしている途中で、ヤマさんも羨むチョーさんの才能に何かが働きかけたようである。足を棒にするだけでは不足で、1%のインスピレーションも必要なのだな。

 さて、大昔を振り返ろう。敷島家の一家全員行方不明事件と敷島教授の教え子の変死事件が、所轄内でほぼ同時に起きて何かが匂った。チョーさんは敷島娘と宗教の繋がりを突き止め、目玉マークを頼りにピエール師の信者ほか宗教関係者から服部の名を聞き出し、近所での聞き込みや小学校での調査によりコンビニの店長と同級生であったことを知った。

 担任の関口先生を訪ねたら、スプーン曲げの話を聞かされた。ケンヂに会いに行ったが店長は本社担当に叱られていたので、その時は諦めざるを得なかった。そして定年も間近になった。


 これだけでは、”ともだち”が複数いるのかもしれないという疑念を抱くのはあり得そうもない。読者の知らない何かがチョーさんのアンテナに引っかかったのだ。それが何だったのか私には推測しようもないので、次の記載に目を向けると図が書いてある。AとBとCが丸印で囲まれ、それぞれ線で結ばれ三角形を成している。

 チョーさんは二人とは書いておらず、複数と表現している。では3人か。さあ、どう読む。例えば服部、山根、サダキヨ、すり替わった奴と並べていくと余ってしまうな。他方で、これまでのヤマさんの口ぶりや、メモの書き振りからして、チョーさんはヤマネがフクベエと共に複数で”ともだち”を構成していると考えていたという感じはしない。あくまで、別人の関係者という印象がするのだが、さてどうか。


 ここで我々の知らないフクベエでもカツマタ君でもない別の人物が、第三の男として”ともだち”を演じていたという趣向も悪くはないがするが、それでは物語は全く決着していないということになり、しかしそれを匂わすような描写は一切ない。「20世紀少年」は完結しているのだ。行き詰ったら基本に返り、メモに戻る。

 見れば「サダキヨの友達(?)」という記載事項中の「サダキヨ」には二重下線が引いてある。その理由は、次の行の「本名 佐田清志」につなげるためだろう。サダキヨの本名という意味を示している。しからば二行目は一行目の続きのようなもので、唐突に思える三行目の「”ともだち”は複数(?)」は、チョーさんにとってサダキヨの登場と共に湧きあがった疑問なのではなかろうか。


 そう考えると、「サダキヨの友達」とは前回、書いたようなフクベエのことではなくて、別の誰かさんかもしれない。”ともだち”トライアングルは、フクベエ、フクベエの隠れ蓑としてのサダキヨ、そしてサダキヨの友達かもしれない影武者のような誰かという構成か。

 少なくとも少年時代はフクベエのみが威張り散らしていて、自分のことだけ”ともだち”と呼ばせ、万丈目の目にも他の子は「取り巻き」にしか見えなかった。過去はともあれ、これを書いた時点のチョーさんの推論は”ともだち”は複数の人間という仮説であった。

 この三角形の絵の上に、別の紙を引きちぎってセロテープで貼り付けたようなものがある。出先で思い当たったことを、そこらの紙に書き留めて、あとでメモに加えたのだろう。余ほどの重要な手がかりと考えたのだ。その紙片には「ハットリ以外にもう一人 その先の人物」という文字と、次のページを指し示す横向きの矢印。


 順序としては、チョーさんは先に”ともだち”が実は複数いるのではと疑い、次にミッシング・リンクを見出したという印象である。「その先の人物」とはヤマさんが覗き見している一枚めくった右側のページに記載されているのだが、残念ながらその右半分しか見えない。カツマタ君であるという先入観丸出しで補足するとこうなる。

 「小(あるいは中)学校時代 子供たちの間で 死んだとされる 団体に在籍」。これだけはサダキヨの可能性を否定できないのだが、前出の「サダキヨの友達(?)」と同一人物であるとすれば、いかにもカツマタ君らしい。


 この二人の関係が「友達」と呼べるかどうかは微妙なところだが、少なくともカツマタ君はサダキヨに少しは好意を持っていなかったら、前にも書いたように同じお面をかぶったり、リモコンの隠し場所を彼にだけ教えたりはすまい。

 その先の人物の存在を感じ取った者はチョーさんの他にも、例の長髪の殺し屋がいる。あの男も、ケンヂが言うように悪になるのは大変なのだから、悪など目指さず楽して正義の味方になれば優秀な刑事になったかもしれないのにバカな奴。


 長髪の直観とチョーさんの推理と私の読み方が正しければ、1997年ごろ既に”ともだち”教団にはフクベエ以外の”ともだち”もいて、二人は時々入れ替わっていた模様だが、あくまで表の顔はフクベエであり、例えばこだわりの万博も明かにフクベエの主導によるものである。

 カツマタ君は何を考えてそんなことをしていたのか。あれだけ少年時代に彼を見下していたフクベエは、本当にカツマタ君を対等のパートナーとして受け入れていたのか。「複数いた」と「すり替わった」とは、言葉の表現としては両立しないのだが、どちらが実態なのか。私がそこまで悩んでいったい何の役に立つのか。謎は尽きない。別途また考えるか...。チョーさんは早死にし過ぎである。



(この稿おわり)





何度数えなおしても一羽しかいない...。 (2013年12月29日撮影)










































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