おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

このくだり (20世紀少年 第799回)

 今回はちょっと寄り道する。「21世紀少年」の上巻64ページ目の上段左に、それほど大きなコマではないが、オッチョがケンヂの肩を抱く絵がある。私の勝手な思い込みであることは充分承知のうえだが、作者はこれを描きたくてこの大長編に取り組んだのではないかと感じている。

 実はその第二候補も直後に出てきて、9人の少年少女戦士が俺たちの旗を仰ぎ見ている絵がそれだ。かつて宮粼駿さんが、いい線を一本引けただけで二三日は幸せなんだから、自分は根っからのアニメ―ターだと実に味わい深い話をしてみえたが、漫画家も同様ではなかろうかと思う。すべて完璧に描く必要はないのだ。大作には勝負所というものがあるのだろう。


 では寄り道に曲がります。司馬遼太郎竜馬がゆく」の文春文庫第6巻に「秘密同盟」という章がある。薩摩がクーデタで幕府方に寝返ったあとのことで、政治都市となった京の街を堂々と歩けるのは幕臣と薩摩側だけという時期に、長州と龍馬は命を賭して京都に侵入し潜伏した。

 桂小五郎は「篤姫」に出てきた薩摩藩家老の小松帯刀邸にかくまってもらったらしい。龍馬はお馴染みの寺田屋で、同盟成立後に伏見の奉行所に急襲されている。おりょうが風呂から飛び出して裸のまま急報したといわれているあの晩のことだ。それは見てみたかったと桂は感想を述べたらしい。そんな冗談を言えるようになったのも、この秘密同盟の締結があったからだろう。


 薩長連合は坂本龍馬一人で成し遂げたことではないと、例えば私の近所ご出身の吉村昭さんも強調してみえる。私の知る限り、司馬さんもそんなことは言っていない。ただ単に威張りたがりの勝海舟が弟子自慢のあまり、そういったのを文藝春秋社がキャッチ・コピーに使っただけだろう。それはともかく、同盟の直前の龍馬の動きについて、司馬遼太郎はこういうふうに書き出している。

 「筆者は、このくだりのことを、大げさでなく数年考えつづけてきた。じつのところ、竜馬という若者を書こうと思い立ったのは、このくだりに関係があるといっていい」。このくだりとは、先ず同盟の内諾を薩摩から取り付けた龍馬が、京に桂たちを連れてきたにも拘わらず、薩摩は連日の接待ばかりで長州に肝心の話を持ち掛けようとしない。


 どうやら原因の一端は長州にもあったようで、会うや否や桂小五郎は西郷や大久保を前に、薩摩に対する積年の恨みつらみを延々と語って聞かせてしまったらしい。司馬さんは余り桂を評価していないように感じることが多いが、私は彼が好きで、西郷とはまた別のタイプの「感情の量が豊富な男」だったように思う。ただし、この場面では、やり過ぎたようだ。

 もう長州に戻るという切羽詰まった桂の話を聞いた坂本龍馬は、夜中の薩摩藩邸に押しかけて西郷隆盛を叩き起こした。旧暦の一月、自分も4年間の学生時代を過ごした京都の冬の底冷えはきつい。小説の竜馬は火鉢のへりを掴み、西郷に用件を端的に伝えて、しばし黙った。


 一人で成し遂げたのではないのなら、それではなぜ後に桂が同盟文書に龍馬の裏書を求めるほど彼を信頼し評価したか。この晩の坂本龍馬の役割は何だったのか、この点について司馬さんは切れ味鋭く簡潔にこう書いている。「あとは、感情の処理だけである」。

 国の将来がかかっているからこそ、ここまで話を進めてきたにも拘わらず、意地や見栄や怨恨にからめとられて両藩ともなかなか自分たちから動けないのだ。この夜、龍馬は西郷に「長州が可哀そうではないか」と吠えた。西郷は「君の申されるとおりであった」と言い、大久保が黙ってうなずいた。この夜、この国は革命の最終段階に入ったのだ。


 ここに至るまでの龍馬は、軍艦だ武器だ兵糧だともっぱら利害調整で両藩を誘導してきた。ファンに叱られそうだが、彼は土佐脱藩の身の上、武士としての収入も社会的地位もないに等しく、ほとんど政商と呼んでいい。後に弥太郎がマネたとおりである。

 司馬遼太郎は歴史家ではない。司馬史観などと呼ぶのは人の勝手だが、ここで「感情の処理」を持ち出すとは、さすが小説家である。司馬さんに対し、おそらく殆どはやっかみだろうが、自虐史観だの天才主義だのと批判する者が少なくない。そういう連中にぜひ訊いてみたいものだ。仮に生まれかわって、司馬作品を一切読めない人生と、好きなだけ読める人生のいずれかを選ばなければいけないとしたら、どちらを選ぶか。

 私一人がここで力んでも仕方がないな。「20世紀少年」に話を戻すと、主人公格であるケンヂやオッチョやユキジは、歳をとればとるほど口数が少なくなってくるし、時代と身の上を反映して表情も固くなっている。彼らが何を考え何を感じているのか、こちらで胸中を察しながらでないと感想文ひとつ書けない。難儀な話です。


 さて、最後も雑談。先日、仕事で国立国会図書館に行ってきた。公文書の複写を頼んだのだが、ふと隣の窓口を見るとマンガ雑誌が2冊置かれている。いずれも小学館ビッグコミックで、オリジナルとスピリッツだった。表紙絵と本の状態からみて、かなり古いもののようだった。「20世紀少年」連載時のスピリッツかもしれん。

 複写の依頼者はどうみても二十代の娘さんで、こちらに向けた左の耳に銀玉鉄砲の銀玉のようなピアスを下げている。著作権の関係で、国会図書館は原則として今回の私のように、調査研究が目的でなければコピーを取らしてもらえない。古いマンガが調査研究の対象になるのだろうか。卒論に昭和時代でも取り上げるのだろうか。


 そのときふと思ったことといえば、千年後の子孫にも読んでほしくてこのブログを書いているのだが、上手いことインターネットとうちの家系が千年後に残ったとしても、肝心の「20世紀少年」のコミックスは、かなりの高率でこの国会図書館に保存されたものだけになってしまうかもしれない。マンガが読めなくなったら感想文どころではない。本をバラしてスキャンし、電子情報にするというサービスがあるらしいけれど、アナログ世代がそんな乱暴なことなどできようか。

 私はコピーを受けとってから検索カウンターに引き返した。こいつは機械を使えまいと思ったらしく、早速近づいてきたご案内係りの方にお引き取り頂いて、システムで「20世紀少年」を検索してみた。幸い小学館は法律を守り、各巻を収めているようである。DVDもあった。ただし、蔵本は関西にはなく東京にしかない。東京が壊滅したら、私の遠大な計画も水泡に帰す。それはとても困る。



(この項おわり)




「オッチョ、乗っていく?」   (2013年9月19日、国会図書館前にて撮影)








































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