おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ケンヂの記憶 (20世紀少年 第723回)

 今回は少し前の場面に戻りたい。せっかくの感想文だから、できるだけ丁寧に読もうと思っており、それはもちろん悪いことではないのだけれど、時おり視野が狭すぎて、まさに「木を見て森を見ず」(ご参考まで、これは英語の諺です)の状態に陥ったまま気づかずにいる。今回はたまたま気が付いたことを二つ。ほかの読者はちゃんと普通に読んでいるはずのことなのに...。

 一つは「1970年の嘘」と「1971年の嘘」について書いたときのこと。当方はヴァーチャル・アトラクション(VA)にこだわり過ぎました。たとえば1970の嘘とは、新聞の日付が1971年になっていることとか、お面の下の顔が大人のサダキヨの顔になっていることとか、1971年の嘘とは仕掛けが外れて失敗したはずのフクベエの「復活」が成功したことになっていることなど。

 
 いずれも嘘は嘘だが所詮、遊園地だか研修所だかのアトラクション、これ自体は些末なことである。サダキヨ館長の暴走にあれほど高須が心配したのはVAの小細工がばれることではなくて、現実のフクベエ少年が実際は大阪万博に行っていないのに、日記や級友に行ったと嘘をついていることであり、それを彼女と万丈目が知っているという事実を”ともだち”が知らないからだった。

 そのころフクベエは「ばんぱくばんざい」という「しんよげんの書」でも特に重要な予言の一つを実現すべく、東京で鋭意、万博会場を建設中であり、法王にも招待状を出していたころである。そんなタイミングに、この嘘が露見したら万丈目と高須の命が危ないということだったのだ。ところで、先日、新しい法王になられたベネディクト16世が、まだ本名のライツィンガー枢機卿だったころの2003年、9.11のテロを受けて書いた文章を佐藤優氏が雑誌に紹介している。


 孫引きします。「今やわれわれに分かってきたことは、世界を人間に住めない場にするために人類は必ずしも大戦争を必要としないことである。いかなる場所にも偏在しうるテロの無力の力は、すべての人々の日常生活の場にまで襲い掛かるだけの強さを持っている。(中略)ショッキングなのは、テロは少なくとも部分的には自分たちを道徳的に正当化していることである」。

 まさしく、この漫画に出てくるテロリストたちは、ぞんぶんに自己を道徳的に正当化している。報道によると新法王は貧困問題にも取り組むと明言しているらしい。テロと貧困、まさに現代世界の二大問題ともいうべき大課題に、バチカンは立ち向かおうとしているのだ。コンクラーベは外形的には枢機卿による選挙だが、教義においては神様が法王を選ぶのだという。さすがは神様、お目が高いというほかあるまい。


 もう一つの読み違いは、ケンヂが北海道から東京へ向かう旅に出たとき、いつごろ今の”ともだち”のことや、彼との経緯を思い出したのだろうと書きつつ、適当に誤魔化したままになっている。だがこの点も、ちゃんと読めば書いてあるのだった。なぜ肝心なときに脳が不調になるのか、わかっていればもう少し生きやすい人生になっていたであろうに。

 具体的には第19集の終盤、関東軍の城で長髪の総統に向かって2001年以降のことを時系列で分かりやすく説明している。大ざっぱに書くとこうなる。
1) 血の大みそかの直後は、火の海の中、命からがら逃げた。
2) 記憶をなくした。自分が遠藤ケンヂだったことを忘れた。記憶のないまま日本中をさまよった。
3) 一度は東京にも行ったが、怖い思い出が蘇ってきそうで、また逃げた。逃げ続けた。
4) だけど2015年、万博開幕。あのニュースを聞いた。ウィルスがばらまかれて世界中が死滅。
5) 記憶が蘇った。いや、逃げ切れなくなった。三日三晩、山の中を転げまわって泣いた。
6) 四日目の朝、立ち上がり「正義の味方になる」ことを決意。全てから逃げるなんて無理だった。


 これまで私は彼に蘇った記憶、そして逃げて回りたい記憶とは、血の大みそかのこと、フクベエのこととだけ考えていたのだが、3)はともかく4)は「よげんの書」とは関係なく、つまりケンヂがむかし書いたストーリーではない。万博開幕のニュースを聞いたなら、2015年の元旦に”ともだち”が死んだことも、開幕式で蘇ってみせたのも知っただろう。その情報に触れて、ケンヂは三日三晩転げまわるほどの強烈な記憶を蘇らせたに違いない。

 以前も書いたように、日本語の「正義」とは、本来「人の道」のことなので、正義の味方とは人の道から外れそうになっている者を、ライ麦畑で捕まえるようにして元に戻せばよい。われらの子供のころの正義の味方は、悪を殺してばかりいたので強烈な刷り込みを受けているのだが、困っているひとや間違っているひとを手助けするのも正義の味方なのである。怪獣や宇宙人を退治するばかりが正義の味方ではないのであった。


 だからこそ彼は「正義の味方になるほうが、よっぽど楽だ」と言うのだろう。悪は人殺しなんかをしなければならないため、長髪のように背負い込むことになるから楽ではないのだ。月光仮面を例にとれば、「月光仮面のおじさんは、正義の味方よ、善い人よ」であり「はやてのように現れて、はやてのように去っていく」とあり、確かにこれでいいならハードルは意外に低そうだ。

 これで蝶々君から、ニセ太陽の塔の内部でケンヂが遊びに誘われている話を聞いても、一応ケンヂは平然としていられたのだ。すでに決着をつけるべき相手、その理由、その方法、みんな考えていたのだと思います。その内容については第22集以降に出てくるので今日はここまで。



(この稿おわり)






ともだち博物館があったところ。館長サダキヨの放火で惜しくも消失。あの漫画が手に入ったらなー。
(2013年5月11日、地下鉄大江戸線にて撮影)


























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