おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

血統と法統 (20世紀少年 第711回)

 第21集第6話の後半は、高須が口論のあげく万丈目を射殺する場面。人殺しのシーンは嫌いなのだが、権力がどういうふうに移行するのかというのは一時期、興味があったので、そういう観点から感想文を書こう。「一時期」と過去形で書く理由は、この国では何度、政権交代が起きようと自分の暮らしに何の影響もないことがわかったから。被支配者たる民衆は、自分の生活を自分で守るしかない。がんばる。

 数年前にふとしたきっかけで浄土真宗に興味を持ち、親鸞本願寺に関する本を読んだときに血統と法統という言葉があることを知った。もっとも血統なら前から知っているが、法統という概念と対比して使うことを初めて聞いたという意味です。一言でいえば偉い人が死んだときに、後継者として血縁のある者を選ぶのか、それとも弟子なり後輩なりから適任者を選ぶかという判断である。


 さっそく脱線するが血統書といえば犬だ。イヌはヒトと同じく生物学の分類でいうと一種しかない。あれだけ外見が多種多様なのに、すべてのイヌは同じ種だから人間と同様、生殖能力のある男と女が為すべきことを為せば、生殖能力のある子が生まれてくる。

 人類は経験上、ハイブリッドのほうが強いことを知っているので「血が濁る」のを避ける。しかし犬の血統書は長年にわたる近親交配の証明書ではないか? あれが商品価値を生むとは理解に苦しむ。


 言い伝えによると親鸞亡きあと、家族や弟子は血統か法統で揉めたらしい。ちなみに親鸞ご自身は、自分は弟子を持たないと言っていたそうだが、そう言われたって現に教わった人たちにとってみれば相手が師であり、こっちは弟子としか考えようがないだろうな。

 結局は血統側が本願寺という組織を作って法統側を取り込んだような形になったらしい。あまり詳しくないがイスラム教のスンニー派シーア派も、血統と法統の揉め事が事の発端らしい。その争いが今もなお激しく続いているのだから大変だ。キリスト教は幸いイエスに血統がなかったようで、バチカンは法統になった。


 松下幸之助は数多くの名言を残しているらしい。その中で手元に資料がないので一字一句まで正確に引用できないのだが、興味深い言葉がある。経営者は自分の子に会社を継がせてはならないという主張である。法統論なのだ。その理由は、経営者は忙しくて結果的に家庭を顧みることができないため、そんな家庭でロクな子が育つはずがないという厳しいものだ。

 この格言があまり引用されないのは、耳が痛い経営者が多いからだろう。さて、ここで松下さんが経営者と言っているのは主に大きな企業の経営者であろう。農業や小売店ほか零細事業ではそんなことを言っていられない。なんせ物心ついたときから親の働く姿をみて、少し育てばもう稼業の手伝いだ。しかも自宅と作業場が隣接している。

 これでは跡を継ぐか、すべてを捨てて家を出るしかないだろう。前者がケロヨンやマルオであり、後者がケンヂである。ケンヂの心がそれほど痛まずに済んだのは立派な姉ちゃんがいたからだ。


 歌舞伎役者や落語家などの特殊技能が必要な稼業も、遺伝と環境がものをいうから世襲が多い。問題は例の世襲議員である。これほどまでに世襲が多発するのは、親子の問題だけではなくて、周囲の利害関係者が五月蠅いからに違いない。たまに秘書とか仲の良い県議などが後継者になったりしているが、まわりはちゃんと利益誘導してくれるかどうか気が気ではないだろうな。

 法統はかくも難しい。真面目に選ぼうとすればするほど混乱するに違いなく、典型例がコンクラーベである。日本の多くの小さなお寺は早々に不犯の戒を棚上げにして、血統に宗旨替えしている。繰り返すが零細事業では仕方がないのだ。では、世界大統領の”ともだち”はどうか。ここからが本題です。世襲議員が多いとはいえ、基本的に民主主義は法統と血統の対決を弱めるという意味で有効な装置である。


 しかし、わが世界大統領は選挙で選ばれたのではなく、ワクチンとインチキにより選ばれたのだ。「しんよげんの書」では生き残った1%の免疫の持ち主、6,000人による直接選挙制で選出されるはずだったが、都合の悪いところは飛ばしたらしい。これに対し、”ともだち”としてのフクベエは、一応、実力でサークル活動のトップに立った。

 高須にとって意味があるのは”ともだち”であり、世界大統領は二の次三の次ではなかろうか。実際、第16巻の一シーンを除き、これまで彼女に限らず彼はひたすら”ともだち”と呼ばれており、本人も「僕は、世・界・大・統・領」などと主張した形跡はない。さて、では生身の人間にすぎない”ともだち”の後継者はどう選ぶか。


 高須は用意周到である。まず血統を腹の中に確保した。法統は今のところライバルがいないので、生まれてから”ともだち”に教育してもらうなり、脳移植するなり、秘薬を飲ませるなり、やり方はいろいろあろう。ただし、それを周囲に認めてもらわなければ自由にできない。どうやら”ともだち”は協力的なようなので問題ない。だが強力な邪魔者がいる。万丈目を取り除かなければ、聖母になれないかもしれない。

 なお、最後の最後に高須は”ともだち”の呪縛からはもう解放されたとオウムの幹部や実行犯とそっくり同じことを言っているが、そもそも呪縛されていたのかどうか。あの雨の夜、フクベエ顔を見て涙を流していたから、フクベエは好きだったのだろう。

 だが第21集の高須は、万丈目との論争を読む限り、お家騒動に忙しい政治家にしか見えない。のちに唯一、血統の正しさを証言できるはずの男が死んだ時点で、高須の聖母計画は破綻したのだ。さて、執務室に戻ろう。




(この稿おわり)





当家の睡蓮鉢とメダカ (2013年5月3日撮影)































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