おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

永遠に生きる方法 (20世紀少年 第710回)

 こんなこと書くと女の人たちに総スカンを食らうかもしれないけれど、実際問題としてお腹の子の父親が誰なのかを知っているのは母親だけである。大阪万博の前の年、種子島に宇宙センターが作られたとき、島にはまだ夜這いの風習が残っていて、当初の駐在員たちは別格の思い出を持っているらしい。当事者が実名入り写真付きのインタビューで述べていたのだから間違いなかろう。

 避妊具もピルも無い昔から、日本では夜這いの習慣は全国的にあった。当然、妊娠することがある。そして父親の候補も複数いる場合がある。そのときどうしたのか。これを先年、学者の先生が解説していたのだが、基本的に孕んだ娘が決めたそうだ。私はこれを聞くまで夜這いとは単なる田舎の若者の性欲の発散方法だと思っていたのだが、今ではなんと優れた婚姻習慣であろうと感心している。もちろん、暴力的なものもあったろうから、それを除いてです。

 
 娘が好きな相手を選べる。好きなのが性格であろうと容姿であろうと資産であろうと問題ではない。現代も同じである。貴族や殿様の娘は必ずしも好きな男に嫁げるとは限らず、妾にしかなれないことすらあった。夜這いの習慣がすたれたのち、多くの若者は葬儀屋のオキク婆のような世話焼き婆さんが選んで来たり上司に押し付けられたりして、見合いした挙句に結婚していたのだ。私の子供のころには恋愛結婚という言葉が、新鮮な語感を帯びていました。

 昔の日本は何と明るい農村であったことか。男にしてみれば夜這いをするからにはある日突然、夫に指名されて拒否権なしという覚悟と責任を背負って臨まねばならない。この種の「孕ませた責任」は私の若いころまでは、まだ残っていた。今はどうなのやら。これだけ不妊治療で苦しんでいる人が多いなかで、安直に「できちゃった婚」などと言っているくらいだから、責任問題なんて考えていないのだろう。

 父親にしてみれば自分の子がどうか分からないわけだし、母親も知らないかもしれない(夜這いは複数で行うことも少なくない)。夜這いは決して公序良俗に反する行いではなかったはずで、娘の貞操を守りたければ父母が夜這い可能な状況に嫁入り前の娘を置くわけがない。自分たちだってやってきたんだし。家族そろって血縁関係の不明な父子を受け入れる。次の子とは父親が違うかもしれないが歓迎する。これに積極的な価値があるとは面白い。今でいうと生物多様性だな。


 前置きが長くなりました。高須の子宮で育っている大事な胎児は、父が誰で母は誰だろうか。手がかりとしては、まず第21集106ページ目で高須が読み上げている報告書の題名である。最初の「ワクチン研究の報告書」(注:ウィルスではない)は別の機会に論ずるとして、次の三つ「遺伝子研究」「クローン研究」「脳移植」が興味深い。いずれもこれまで出てこなかったテーマである。これを読んでから高須は妊娠したお腹をなでているのだ。関係ありそう。

 次の手がかりは、108ページ目から始まる高須と万丈目のやりとり。「ねえ聞いて、私、成功したの」という高須に対する万丈目の不審そうな顔。そして、「私、おめでたなの」と言った高須と驚愕する万丈目の表情。言いだしっぺのくせに万丈目は高須の妊娠を知らなかったのだ。彼は人工授精計画を推進しなかったのか。そしてもう一つは、111ページ目で高須が中谷に告げた「”ともだち”は、永遠に生きる方法を手にしたの」という発言。関連情報は以上である。

 
 まずは消去法から入ろう。”ともだち”と高須が普通に男女の仲になって子をなしたということは有り得るか。まず無い。そういう場合は、「私、成功したの」とは言うまい。成功が性交の誤植でなければだが。それに、”ともだち”にだって女の好みというものがあろうし、誰でも選べる立場だろうし、よりによって高須はないだろう。もっとも万丈目という変な例外がいるので、こちらの根拠は弱いが。

 ともだち歴に代理懐妊が解禁されていたと仮定して、その場合、母親は高須である必要はないのだが、妊娠・出産には母体にも相応のリスクがあること、高須の性格と狂信の度合いからして他の女性の子をわざわざ自分で腹を痛めて産むとは思えないことから、代理母や借り腹は考えにくい。


 では、当初計画だった人工授精はどうか。これなら成功したと喜んでも不思議ではない。一般的な人工授精、すなわち”ともだち”の精子と高須の卵子を人工的に授精させ、高須の体内に入れたとしたらどうか。普通に考えればこれだろうね。だが、この場合、お腹の子は”ともだち”と高須の子であり、人工授精だろうと先祖伝来のまぐわいによる妊娠であろうと、「”ともだち”は、永遠に生きる方法を手にしたの」という言い方をするだろうか。

 もしかしたら、どこかの宗教には子を残すことが、すなわち永遠に生きることだという信仰があるかもしれない。むしろ個体が生きることだけが生命活動だと思っているのは科学万能を無邪気に信じている我々の時代、我々の社会だけかもしれない。だが、何はともあれ、現代日本では女が妊娠することと、男が永久に生きることを同義とする人はおるまい。カルトの狂信者だから何を言うかわからんという説も出そうだが面白くない解決である。


 ここでようやく先ほどの「クローン研究」にお出まし願う。私が知る限り、”ともだち”は救世主とか預言者とか言ったり言われたりしているが、神話に出てくるような神様ではなくて、あくまでヒトである。人類の一員である以上、いつの日か必ず肉体は滅ぶ。その際の霊魂の行方については諸説あり、経験者がいないため未解決のままだが、少なくとも私のような無宗教者は自分の肉体の終わりとともに、わが精神もこの世から消えると信じて疑わない。

 死んだふりも復活したふりもせず、「永遠に生きる方法」を手に入れるにはどうしたら良いか。ミイラという手もあるが、あれは腹の中には入れない。同じ肉体の再現はクローン技術により可能である。正確に言えば遺伝子が一緒なだけで、一卵性双生児がそうであるように生育環境その他で本体と変わっていくはずだが、ともあれ”ともだち”と似た顔の人間を再生産できる。そのときになって、すり替わった”ともだち”の整形前の顔が分かるかもしれない(フクベエ顔に整形していたらの話だが)。


 では、人格のほうはどうする。違う時代に違う生育環境で育つのは避けられない。間違って、まともに育ってしまい”ともだち”をやってくれなかったら困るではないか。おそらくその解決策は残る二つの報告書、「遺伝子研究」および「脳移植」に含まれているに違いない。脳はまだまだ未知の領域が多いようだが、最近では人のみた夢まで電気的に再生しているくらいだから、いつの日かそのメカニズムもかなり解明されるであろう。

 そうなれば脳とて内臓の一つであるに変わりはなく、技術的には移植できる日が来ると考えるのが自然ではないか。それもそう遠くないかもしれない。すでにブラック・ジャック先生はプロミネンスという馬の脳を、死んだ飼い主の少年の頭に移植している。SFファンは良く知っているが、テクノロジーの進歩はたいていの分野でSF作家の創作能力を質的に、あるいはスピードにおいて、はるかに上回っている。


 そうなると例えば「今そこにいる”ともだち”」が将来、脳以外の病気で亡くなったとき技術さえあればクローンに脳移植することにより、理屈の上ではほぼ同じ人間の出来上がりということになる。それができなくても、クローン子に”ともだち”の脳の中身(思考や記憶などなど)を入力することは可能だろう。

 すでに第16巻において、世界大統領の記憶は機械的に読み取られている。フクベエの記憶や、当時の出来事も全て事実とは言えないが、ヴァーチャル・アトラクションにデジタル情報となって保存されているのだ。材料には事欠かない。かくて、かなり苦しい論理構成であるが、生物学的には同じような人間を作ることで「永遠に生きる方法」を手にいれたつもりになることはできそうだ。

 だが、これだけでは足りない。カツマタ君ではなくて、”ともだち”として生きてもらわなければならない。要するに家を継いでくれないと困るのだが、そういう風習はもう日本社会にはない。歌舞伎役者のように、個別に教育するしかない。どうするつもりだろう。



(この稿おわり)





バルコニーは花盛り (2013年5月4日撮影)































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