おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

双子 (20世紀少年 第676回)

 心理学に興味をお持ちの方は、われわれの人柄の構造を図であらわした三重丸の同心円をご覧になったことがあるかもしれない。第20集の表紙絵にある”ともだち”マスクの目玉は二重丸だが、これに輪がもう一つ増えたものだ。私も最近立て続けに2つのセミナーでそれを見た。考え出したのはヨーロッパの学者さんだったと記憶しているが、名前を忘れた。

 念のため、あくまで概念図であり、わかりやすく単純化したものであって、われわれの心が地表とマントルとコアのように出来上がっているわけではない。さて、一番外側の層は「人格」と訳したものが多い。これは変わりやすい。進学や異動で人間関係や物理的な環境が変化しただけで、これは変わる。私たちは意識しているか否かにかかわらず周囲と影響しあっている。病気をしても変わりますね。日々、変化する。人格形成という言葉があるように、自分でも他者も変えることができる。


 真ん中の層はふつう「性格」と訳されている。これはそう簡単には変わらないが、でも子供のころと中高年のころと比べれば、誰でも少しは変わっているはずだ。私の平凡な人生でも、就職、結婚、子の誕生、外国暮らし、失業などのたびに、考え方感じ方はずいぶん変わった。多くは成長と呼んでいい変化だろうが、グレることもあるし、それがまた戻ることもある。非日常的な出来事に遭い、「人が変わってしまった」などというときの「人」もこの部分だと理解している。

 最後に中心核にあるものは、「気質」などいくつかの日本語訳を見たが、「魂」というのが気に入っている。「三つ子の魂、百まで」の魂である。これは持って生まれたDNAレベルの脳の出来具合と、数え歳三つぐらいまでの生育環境で決定的に固定するというのが通説ではないかと思う。これは私の実感にも合う。物心ついたころから半世紀たった現在に至るまで、私の中には不変の私がいる。


 双子の場合、特に一卵性双生児は、生育環境もほぼ同じであれば、魂はかなり似ているということになる。実際、私の親族に双子がいるのだが、その母に聞いたところでは、双子は放っておく言葉すら要らない二人だけの独特の世界に安住してしまい、他の子と付き合わなくなってしまうことがあるそうで要注意だそうだ。しかし、成長とともに性格にも外見にも個性が芽生え、やがて人柄もかなり違いが目立つようになるのが通常だろう。

 この親戚の双子の場合も、幼少のころは彼らの父親すら区別ができず、片方の名を呼んで返事がなかったら間違いという、子供には少し迷惑だったかもしれない識別方法を使っていたという。実の父さえこれだから年に二三回しか会わない私は、誰かがどちらかの名を呼ぶまで静観し、服装で個体を特定するという地味な手段を用いていた。一泊すると着替えるので一から出直しだ。

 
 この双子の進学を巡って、一時期、東京大学付属中等教育学校に行かせようかという話が出たことがある。この学校では双生児研究をやっているのである。人間の性格や体質は、遺伝的要素と社会的・環境的要素の組み合わせで決まっていくという前提で、それではどこまで遺伝が関与しているのかを調査研究するためには一卵性双生児が最適である。

 当時、同校のサイトには、この研究に参加することを目的として本校に入学しても、東京大学への進学を保障するものではありませんという一文があって笑った。そういう魂胆の親が出るのは間違いないとみての用心であろう。いわば人体実験みたいなことをするのだから、少しぐらい下駄をはかせても良かろうにとも思ったが、双子ばかりのキャンパスというのも異様だろうな。


 親類のツインズも十代になるころには、服で覚えなくても一目瞭然と言っていいほどに言葉づかいや体格や服装に個性の違いが出てきた。親によれば性格や趣味もずいぶん異なるし、部活も遊び友達も別々だったというから、やはり環境の差は大きいのだな。私も小学校から高校にかけて同学年の双子が三組いたが、一目でどちらか分かったものだ。

 「自分さがし」から始まって、近ごろは「自分らしく」も大流行のようだが、この「自分」なるものが中心核の「魂」の部分を指すとしたら、私は少々危険な発想ではないかと思う。外側の「人柄」は、確かに周囲に翻弄されて困っていると感じている人にとっては脱ぎ棄てたいものかもしれないが、ここの部分はいわばクッションであり、私もなんとかこれで桃井かおり風にいうと「バカが多くて疲れる」世間をかろうじて渡っているのだ。傷ついたときはカサブタになってくれる。

 
 さて、かくも延々と双子論を展開してきたのは、久々に出てきたヤン坊マー坊が、相変わらず「どっちがどっち」だか分からず、おまけに一緒にやせて、一緒にリバウンドしたらしいし、性格の悪さも言葉づかいの粗さも、二人そろって昔も今も何ら変わりがないので、定説にも私の実体験にも合わない。この二人は「魂」の次元でつながったまま、社会的にも相互に離れることなく馬齢を重ねてきたらしい。

 これからの二人の言動を見ていくが、一部を除き(長塚さんの件)、実に子供っぽいままで、その点、”ともだち”と似ている。秘密基地時代、双子はこれでもかというほどに近所の子供たちをいじめていたのだが、そういえばフクベエや山根やサダキヨをいじめていた形跡がないな。いじめ甲斐が無かったのだろうか(そんなものが、あればの話だが)? そのおかげか、似た者同士だからか、双子は”ともだち”に癒着して生き延びてきたらしい。これまでは。



(この稿おわり)




小料理屋のおかみさんが本人から直接もらったと言っていました。
今の世界で最高のサッカー選手です。
(2913年3月25日撮影)
































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