第19集の56ページ目、スペードの市に「これでもひっかけてろ」と渡されたものを着用した将平君が立っている。その顔いろからして気に入らないらしい。ケンヂは「999(スリーナイン)だな」と実に的確な感想を述べているのだが、将平君はこの漫画も知らないようで、また「は?」と問い返している。
ケンヂは補足説明をしてくれない。このマントというか毛布みたいなものと、麦わら帽子風(たぶん布製だろうが)はお馴染み「銀河鉄道999」の主人公、星野鉄郎の旅姿である。星の鉄道の意であろうか。彼は「機械の体」を求めて、案内役の謎の女(女だよな多分)メーテルとアンドロメダの大星雲に向かう。私は999の車掌さんのファンです。松本漫画は脇役の魅力が光る。
宇宙空間を列車が走るという荒唐無稽なモチーフは、もちろん宮沢賢治「銀河鉄道の夜」へのオマージュである。もっとも、河合隼雄は中沢新一との対話集「ブッダの夢」の中で、「銀河鉄道の夜」には厳しい父性があるが、スリーナインは「完全にお母ちゃんの話」になっていると語っている。中沢さんも日本人は母性の物語を好む傾向があるという。
以前書いたように私は宮沢賢治の作品に魅かれつつも、どうしてもすんなり読めないという妙な感覚があるのだが、河合さんのおっしゃる父性的な厳しさも関わっているのかもしれない。うちの母親に言わせると宮沢賢治は、「どうも理系の人の書いた文章は読み辛い」そうだ。確かに彼の作品には化学、天文、物理、地質などの用語がたくさん出てくる。
その河合・中沢両氏に「現代日本の最高の知性にして、最大の馬鹿かもしれない」と言わしめた吉本隆明は、私の手元にある「別冊宝島 もう一度読みたい宮沢賢治」の巻頭に収録されている「『銀河鉄道の夜』について」という書評を残した。吉本にしては珍しく分かりやすく、そしてまことに心のこもった文章だ。この中で彼は「銀河鉄道の夜」は宮沢賢治の「もっともすぐれた作品です」と高く評価している。
いま手元にないのだが私は「銀河鉄道999」のコミックス全巻を持っており、ある巻の「あとがき」において小松左京が宮沢賢治について、大正時代の東北に水晶のような硬質で美しい文学が生まれたことの不思議さを嘆じている。それにしても、小松さんも河合さんも吉本さんもいなくなってしまったな。
「銀河鉄道の夜」の「九、ジョバンニの切符」の冒頭に、「白鳥区」と「アルビレオの観測所」が出てくる。アルビレオは星の名で、はくちょう座の白鳥の頭に当たる場所に位置する。肉眼で見ると平凡な星だが、天文ファンには全天一美しい二重星として知られている。
賢治の表現によると、「目もさめるような、青宝石と黄玉のすきとおった玉が、輪になってしずかにくるくるとまわっていました」となる。青宝石と黄玉には、サファイアとトパーズというルビが振ってある。実際、アルビレオは比べて少し大きいオレンジの星と、少し小さい青い星が並んで輝いている。ただし、重星であって連星ではない。お互いの周りを回っているのではなく(惑星ソラリスの母星は赤と青の連星だったな、確か)、たまたま近所に見えるだけだ。
私は中学生のころ買った反射式天体望遠鏡、口径100ミリ、倍率65でアルビレオを観たときは、この世にこんな綺麗なものがあるのかと驚倒したものである。ドンキーもきっと観ていただろうと思う。その望遠鏡は処分してしまったが、あの世に行く前に、もう一度みたい。文学でいうとミヒャエル・エンデが「モモ」に描いた時間の生まれる泉のような美しさである。
中学3年生のとき生まれて最初で最後のラブレターというものを書いたことがある。その文中、思い出すたびにひとり赤面せずにはいられないのだが、私は貴女にアルビレオのオレンジの星を捧げますというようなことを書いた。渾身の力作であったはずの手紙は完璧に無視された。あいにく文系の人だったのだろう。
ケンヂが賢治を読んでいたかどうかは知らない。ジョバンニとカムパネルラは、ケンヂとオッチョのように親しい。それはともかく、将平君は999の謎を解けぬまま、東京までこの恰好で旅することになる。残念ながら旅の道連れはメーテルのような美形ではなく、変人偏屈のおじさんであるが彼が選んだ道だから仕方がない。
ところで、スペードの市が彼にこの変装セットを渡したのは親切心ではなく、彼以外の誰かが逃亡警察官であることに気付かないようにするための陰謀であることに、ケンヂも将平君も気が付かなかったので大変なことになった。
(この稿おわり)
近所のお店。何屋さんか不明。(2013年2月4日撮影)
そうさ君は気付いてしまった
やすらぎよりも素晴らしいものに
地平線に消える瞳には
いつしかまぶしい男の光
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