阿佐田哲也の記念碑的名作「麻雀放浪記」は、意外なことに最初に出てくる賭け事が麻雀ではなく、チンチロリンである。終戦直後の東京が舞台で、著者の分身と思われる語り手の坊や哲が中心となって展開する物語だけれども、真の主人公は愛読者なら誰も異存がないと思うが、筋金入りの博徒、ノガミのドサ健だ。ノガミは上野の俗称だから拙宅の近所です。
そのチンチロリンをやっている場面が、第19集の82ページに出てくる。ピンゾロを出して喜んでいるぞ。サイコロの一の目が三つ並んだもので、ラビット・ナボコフでいえば「ミーシャ」のような強い手だ。私も子供のころ何度かチンチロリンや花札をやった。そういう博打を面白がって子供に教える親戚や近所のおじさんが何人かいたのだ。さすがは昭和の地縁血縁である。
チンチロリンは、おそらく茶碗に転がるサイコロの音を、松虫の鳴き声になぞらえたものだろう。風流です。拓郎が「落陽」で「どこかで会おう、生きていてくれ」と歌ったスッテンテンのあの爺さんは、土産にサイコロを二つくれたそうだから、チンチロリンではなく丁半で有り金なくしたのかもしれない。
いずれにせよ、ともだち暦3年においてはギャンブルさえ昭和の遠い昔に戻っている。そして、この章は賭け事がテーマになっているようなもので、ケンヂが関所を通過できるかどうかが賭けの対象になっているし、そもそもケンヂは命を賭けているのだ。
氏木氏は懸命にケンヂの暴挙を止めようとしている。ケンヂの身を案じているだけではなかろう。ここでまた悲劇が起きれば、彼の心の傷は更に深くなってしまう。だがケンヂは全く意に介さない。周囲で所在無げにしていた男たちは、関所破りが来たのを見て、さっそく賭けを始めている。
氏木氏によると200人ぐらいが、ここで足止め状態になっているそうだ。彼らも東京に帰る夢を見てここまで来た。そして多くの絶望を見て、関所を越えるに越えられずにいるのだ。後に分かるが、ケンヂは自分の生死を賭け事の材料に使っているような連中の希望まで背負って関所に向かっている。
スペードの市は事情があってか、賭場に遅れた。奴が死ぬほうに十万だと乗ろうとしたときには、すでに賭けは成立しないほど、失敗する方に金が賭けられていたらしい。市が将平君を売ったのは薬が必要だったのかと思いきや、この賭け金はまず間違いなく懸賞金の十万友路だろう。薬代は脱東北あっせん業の蓄えから出たか。まさか強奪したのではあるまいな。
お願いだから、頼むからやめてと叫び続ける氏木氏に、もう一度、東京の相方に原稿わたすからなと約束して漫画家を振り切り、ケンヂは関所に赴いた。さっそく通行手形の提出を求められ、名前を訊かれて「矢吹丈」と答えている。氏木氏にも偽名を伝えて書いてもらったのだ。写真はそのへんで撮ったかな。
このとき近くに停車してあった車から音がしてケンヂが振り向くと、囚われの将平君が警察の車のリア・ウィンドウをドンドンと叩いている。声は届かない。ケンヂは内心、驚いただろうが変な素振りを見せる訳にもいかず軽く手を振っている。
銃声を聞くのが怖くて耳をふさいでいた氏木氏の目の前で、ゲートが閉じてケンヂの姿が消えた。例の墓堀のお爺さんが再登場し、「第一ゲートは通過したな」と言った。ご老人によると、ここまではよくある話だが、次の第二ゲートでもっと厳しいチェックがあり、ズドーンなのだそうだ。
怯える氏木氏を相手にせず、ご老体は早くも墓を掘り始めている。ちと気が早いが、それにしても働き者だ。仕事があるというのはいいことだ。ギャンブラ―たちは、そろそろ銃声だとカウントダウンを始めている。市は唾を吐いて立ち去ろうとしている。しかし爺ちゃんが「あれ?またゲートが開いたぞ」とスコップを持つ手を止めた。
(この稿おわり)
手許にサイコロがないので、第20集より流用。
また元気で仕事しようやんけ、ワレ
働いて働いて銭ためて 蔵、建てたろうやんけ
「河内のオッサンの唄」 ミス花子
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