おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

Ten Commandment of Detection (20世紀少年 第592回)

 今回と次回は脱線します。昨年、我が家の新聞に、「ノックスの十戒」が紹介されていた。ミステリのファンならば先刻ご承知の伝統的な推理小説の規則集である。1920年代にイギリス人の小説家にしてシャーロキアンのロナルド・レックスという御仁が、推理小説家に課したプロット設定上の制限・禁忌などに関する十箇条です。

 原文の英語では「Ten Commandments of Detection」と呼ばれる。中には妙なルールもあるが、大半は現代でも通用する考え方であろうと思う。なお、ノックスはこれら全てを独創したのではなく、クリスティほか先輩同業者の作品を調査研究したうえで結論を取りまとめている。

 これまで何度か、「20世紀少年」をミステリとして読むのは限界があるという持論を展開して来た責任上、ノックスの要請がどの程度守られているのか、検討してみるのも感想文ならではの一興。私訳を掲げますが、原典は長文であるため、適宜、省略・編集します。


 その1。犯人は物語の序盤において言及されなければならない。しかし、読者に対し、犯人の心理描写をしてはならない。犯人と分かるまでは、怪しげな態度を取らせてはいけない。

 その2。解決のため超能力や異常な能力を持ち出すのは論外である。

 その3。隠し部屋あるいは秘密の通路を用いるのは一つ限りとし、二つ以上、使ってはいけない。

 その4。未発見の毒物は使用不可とする。また、科学的な解説が延々と必要になるようなものも禁ずる。

 その5。中国人を登場させてはならない。その理由を私(ノックス)は知らない。おそらく今や西洋文明において、信仰の時代は終わり科学の時代を迎え、されど引き続き倫理の時代であることに解答を見出せよう。

 その6。偶然の出来事が探偵の手助けをしてはならない。また、探偵は説明不可能かつ結果的に正しかったというような直感の持ち主であってはならない。

 その7。探偵が犯罪者であってはならない。例外は、たとえば犯人が探偵を装っているだけであり、当の探偵自身は間違いなく探偵であることを、著者が誰にも分かるように記述している場合などに限られる。

 その8。探偵は読者が謎解きに使えるよう示されて来た手掛かりで解決しなければならない。いきなり出て来た手掛かりに拠る解決では不十分である。

 その9。探偵の友人、間抜けなワトソン君であっても、自身の結論や推理を述べるのは自由である。

 その10。双子であるとか、変装の名人であるとか、容易に他者になりすますことができると予め読者が納得しているのでないかぎり、変装していた者が犯人であってはならない。


 以上がノックスの10の禁じ手である。もちろん、原則あれば例外ありで、「アクロイド殺し」などは見事な曲芸だが、ともあれ読者の期待を裏切ってはならぬというノックスのプロフェッショナリズムは称賛に値すると思う。その10は怪人二十面相の世界だな。それに双子は駄目だそうだ。

 推理小説の読者の期待とは、二種類あるように思う。一つは読みながらの犯人探しや、解決されたときの犯人の意外さに対する驚き。つまり「誰か」。もう一つは動機、手口、凶器などから、探偵が事件を解決して行く知恵と手際の良さを味わう楽しみ。こちらは、「何故、どうやって」。上記の十戒は、そのいずれかが興醒めにならないための規定である。


 この中では何と言っても、その5が異彩を放っている。これが書かれた90年前はもちろん現在でも、欧米には日本が中国の一部と思っている者が少なくないそうだから、その5には我ら大和民族も含まれていると考えた方が良いかもしれない。

 では、その心は? たぶん異質な者が犯人では、SFやバイオレンスならともかく、推理小説ファンのお気に召さないところがあるのだろう。あえて現代風に言い替えれば、さしずめ宇宙人や愛犬ポチは犯人であってはならないといったところか。

 さて、ノックスが「20世紀少年」を読んだら、どう評するであろうか。次回はそれを私が、頼まれてもいないけれど代行します。二人目の”ともだち”はまだ先々の展開が残っているので後に再考するとして、この時点では「解決済み」に近いフクベエの物語を材料にします。



(この稿おわり)




上: みかん
下: 富士山
いずれも在所のご近所にて。






















.