おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

フクベエの場合 (20世紀少年 第593回)

 前回に続く。「ノックスの十戒」を再掲します(長いので一部省略)。

 その1。犯人は物語の序盤において言及されなければならない。

 その2。解決のため超能力や異常な能力を持ち出すのは論外である。

 その3。隠し部屋あるいは秘密の通路を用いるのは一つ限りとし、二つ以上、使ってはいけない。

 その4。未発見の毒物は使用不可とする。また、科学的な解説が延々と必要になるようなものも禁ずる。

 その5。中国人を登場させてはならない。

 その6。偶然の出来事が探偵の手助けをしてはならない。また、探偵は説明不可能かつ結果的に正しかったというような直感の持ち主であってはならない。

 その7。探偵が犯罪者であってはならない。例外は、たとえば犯人が探偵を装っているだけであり、当の探偵自身は間違いなく探偵であることを、著者が誰にも分かるように記述している場合などに限られる。

 その8。探偵は読者が謎解きに使えるよう示されて来た手掛かりで解決しなければならない。いきなり出て来た手掛かりに拠る解決では不十分である。

 その9。探偵の友人、間抜けなワトソン君であっても、自身の結論や推理を述べるのは自由である。

 その10。双子であるとか、変装の名人であるとか、容易に他者になりすますことができると予め読者が納得しているのでないかぎり、変装していた者が犯人であってはならない。


 ノックスの戒めの中で、彼の十戒を知らない人でも知っていそうなルールといえば、その1の「犯人は物語の序盤において言及されなければならない」ではなかろうか。最後のほうに出てきた人物が犯人でしたでは、推理小説ファンの謎解きの楽しみをごっそり奪ってしまうのだから適切な要求であろう。

 拙訳の「言及」という用語が堅苦しい。できることなら「登場」とすれば分かりやすいのだが、原文の英語が「be mentioned」となっているので、登場だけに限定するのは正しくない。今日はフクベエが題材だが、フクベエの登場よりもカツマタ君の話題のほうが順序は先なので、ここでは安直に訳せないのです。


 フクベエの初登場は第3集の同窓会で、それまでは名前も出てこない。コリンズに同情する子供の脚として出てくるだけだ(これも間違いなくフクベエかどうかは明らかにされてはいない)。フクベエは第12集で死亡するので、第3集というのが「序盤」といえるかどうかは微妙かもしれないが、少なくとも犯人候補だったオッチョやサダキヨの大人時代の登場よりは早い。まずは及第点か。

 もっとも、やや影が薄い。「ノックスの十戒」のほかにも同時代のヴァン・ダインによる「20則」という似たようなルール・ブックがあるのだが、その第10則は「犯人は物語の重要な役を演ずる人物でなければならない」というのがある。フクベエは血の大みそかの七人の戦士の内の一人であるが、どうみても一番地味である。目だったのは死んだフリをしたときだけであろう。


 それに加えて、本来「よげんの書」によれば、20世紀最後の日に立ち上がるはずの9名の戦士は、物語の序盤において描写されている過去のシーン「秘密基地」、「双子との戦い」、「夜の理科室」の少なくともいずれか一つに少年時代の顔と名が出てくるのだが、フクベエは脚役だけである。職業も分からないし、むしろミステリ的には最初からいかにも怪しいのだ。

 犯人がフクベエだったことの驚きは、彼が序盤から重要な役割を果たしてきた登場人物だからではなく、死んだはずだったのに生きていたからである。これは推理小説の伝統的な手法からは離れている。やはり、冒険科学漫画の特徴というべきだろう。


 その4も当てはめにくい。第4戒は謎解きの楽しみのため、犯罪手法が理解困難であってはならないという趣旨だと思うが、第12集までの段階では、構造不明の巨大ロボット、誰がどう開発したのか分からないウィルスとワクチン、ほとんど説明のないヴァーチャル・アトラクションの仕組み等々、フクベエを連想させるものは全くない。

 その6やその8は探偵が合理的、必然的に犯人像に迫るように求めたものだ。「20世紀少年」に探偵は出てこないが(チョーさんだけは例外的だが、被害者になってしまった)、第11集から第12集にかけて犯人像に迫るの探偵役はヨシツネとユキジとコイズミ、オッチョと角田氏、春さんとマルオ、そして単独行のカンナ。


 このうちカンナのみ超人的な記憶力と直観を示しているが、他はノックスも文句なしだろう。それまで物語中で示されてきた手がかりによりフクベエにたどり着いている。この部分、第11集から第12集にかけてはノックス的であると言ってもよい。

 ただし、それは犯人捜しに限定しての話であって、何故どうやってフクベエがこんなことをしたのかという経緯は、第13集から第18集あたりにかけて散発的に説明されているのみであり、ホームズやポアロの切れ味と比較すると、それほど目の覚めるような解決という訳でもない。


 どうも全体的に推理小説(推理漫画か)とみなすのは苦しい。やっぱり、コナン君とは別物だ。中国人もおおぜい出てくるし。前回、第二の”ともだち”については後に再考すると書いたが、先に結論から言えば、「カツマタ君」の場合はさらに諸条件のクリアが厳しい。

 特にひっかかるのが、その10である。第10戒は読み手をだますのはルール違反だという法則であるが、「20世紀少年」の後半は平気でこの定めを蹴散らして進む。意識的、積極的に読者を困惑させようとしているのは明らかであり、見事な結末でカタルシスを得るようにはなっていない。

 無差別大量殺人とイジメが題材になっている以上、怨恨や金銭目的といった一般の殺人事件のような個人的な事情と資質によるものではない動機が横たわっているのだから当然といえは当然だろう。



(この項おわり)




カモは東京や静岡の川でも、普通に見かけるようになった。昭和三十年代、四十年代の都市部では、川と言うより巨大なドブが流れていたような印象が強い。 
(2013年1月1日、静岡市内にて)






















































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